明
明は14世紀後半に成立し、17世紀半ばに滅亡した漢民族系王朝である。創業者は朱元璋(在位名は洪武帝)で、元末の乱を制して1368年に南京で即位し、華北を回復した。国家は皇帝専制を基軸としつつ、科挙で登用された士大夫を官僚として配置し、律令と成文法を整え財政・軍事・社会を一体管理した。永楽年間には北京遷都と大遠征を実施し、冊封・朝貢を媒介に東アジア秩序を再編した。一方で海禁と密貿易、北辺防衛と遊牧勢力との緊張、16世紀以降の銀経済の進展など、内外の課題が重なり、17世紀に内乱と清の侵攻で崩壊した。
建国と統治機構
洪武期には中央集権が徹底され、皇帝親政が標榜された。中枢では六部を柱に監察機関を配し、地方は省・府・州・県の四層制で統御した。村落には戸籍・徭役管理の里甲制が敷かれ、軍事は衛所制で兵農分離的に担わせた。成文法は大明律に体系化され、農本主義のもとで田地・租税・軍役が再編された。これにより元末の荒廃から生産の再建が進み、内政の基礎が固まった。
永楽期の拡張と海洋世界
永楽帝の時代には北京への遷都が行われ、首都機能と北辺防衛が一体化した。対外的には宦官指揮の大艦隊がインド洋へ航海し、鄭和の遠征が朝貢圏を広域に拡張した。これらは威信外交と交易促進を目的とし、香料・宝石・織物などが流通した。ただし遠征は継続的な財政負担を伴い、後期には中止されて海禁策が再強化された。
朝貢・海禁と倭寇
対外経済は基本的に朝貢貿易に限定され、民間海商の自由交易はたびたび制限された。海禁は密貿易や沿海治安の悪化を招き、倭寇問題が深刻化した。明廷は勘合貿易などの統制策で対応したが、政策は弾力性を欠き、地方官・軍の腐敗も拍車をかけた。沿岸社会は密貿易に依存し、国家統制と市場の実態が乖離していった。関連事項として日本や東シナ海の動向は倭寇項を参照。
財政と銀経済の進展
16世紀以降、明の財政・市場は銀を基軸とする貨幣経済へ大きく傾斜した。年貢・役を貨幣で一括納付させる税制整備が進み、地租・丁銀の簡素化が推進された。大量の銀は日本の産銀と新大陸産のスペイン銀を通じて流入し、地租・商税・手工業の活性化を促した反面、銀価格の変動は財政の脆弱化をもたらした。詳しくは日本銀、石見銀山、スペイン銀貨を参照。
北辺防衛と軍事
北方の遊牧勢力への備えは長期の最重要課題であった。明は長城線の整備・関隘防衛・屯田の拡充で対応したが、軍戸の疲弊や兵糧輸送の負担が慢性化した。15世紀には北狩による大敗も生じ、皇帝親征の限界が露呈した。軍制の形骸化に対し、地方武備の再建や募兵の比重増が試みられたが、財政基盤の弱体化が改革を阻んだ。
学術・文化と社会
科挙は国家エリートを選抜する制度として成熟し、経書注釈・実務学の蓄積が進んだ。都市では手工業と商業が繁栄し、出版文化・講学の広がりが知的公共圏を育んだ。小説・戯曲や工芸の発達は民間の需要に支えられ、社会意識の多様化を映し出した。海上交易の広がりは欧亜連結の一端を担い、イタリアや西欧の商人動向とも接点を持った(関連:イタリア商人)。
世界交流と東アジア秩序
明は冊封・朝貢を通じ、周辺諸国との儀礼秩序と交易チャネルを整備した。東アジアの政治・経済・文化の相互作用は、元代以来のネットワークを継承しつつ再編され、16世紀には銀を媒介に世界経済との結節が一層強まった。広域視点については14世紀の東アジアや東アジア世界の動向、さらにアジア諸地域の繁栄を参照。
晩明の危機と滅亡
17世紀に入ると、天災・飢饉・疫病に加え、財政赤字と増税が社会不安を拡大させた。宦官勢力の政治介入は官僚機構の分裂を招き、清廉派と専権の対立が激化した。各地で民変が続発し、北東から台頭した勢力が華北へ進出する中、都城は陥落して王朝は崩壊した。その後も南明政権が抵抗を続けたが、やがて華南も併合され、明は歴史舞台を去った。
用語補説:里甲制・衛所制
里甲制は戸籍・租税・徭役の管理単位を編成する制度で、村落社会の統御と徴発を効率化した。衛所制は軍戸を中核に置く軍政・兵站の枠組みであり、城塞・関隘の防衛と屯田経営を結合した点に特色がある。
用語補説:海禁と密貿易
海禁は私貿易を抑制し朝貢交易に収斂させる政策であるが、沿岸経済の実需と乖離しやすく、密貿易や海商勢力の台頭を誘発した。治安対策としての効果と、地域経済の活力低下という副作用が常にせめぎ合った。
用語補説:銀経済と税制
16世紀後半の税制簡素化は、従来の実物納から貨幣納への転換を推し進めた。銀は遠隔地交易を潤滑化させたが、流入源の変動により物価と歳入の不安定化を招き、国家財政の脆弱さを露呈させた。