14世紀の東アジア
本項は14世紀の東アジアにおける政治・社会・経済の変動を概観する。世紀前半はモンゴル系王朝の下で広域秩序が維持されたが、後半は元朝の動揺と紅巾の乱、1368年の明建国によって権力構造が急速に組み替わった。朝鮮半島では高麗の改革と内紛が続き、1392年に李氏朝鮮が成立する直前段階に至る。日本は南北朝内乱と室町幕府の成立で武家政権の再編が進み、海域では港市と海商、倭寇が地域間交易と治安に強い影響を与えた。国家権力は儀礼と実利を合わせ持つ朝貢枠組みで周辺を編成し、モンスーンに支えられた季節風貿易と、インド洋へ連なるインド洋交易圏の結節が形成された。
元の動揺と北元化
元は征服帝国の重層支配と広域交通を基盤にしたが、宮廷内訌と財政不安が累積し、交鈔の乱発や飢饉・疫病が社会不安を拡大させた。江南の生産力と運河輸送は維持されたものの、色目・漢人・南人の区分が齟齬を生み、各地で反乱が頻発する。1351年に始まる紅巾の乱は決定打となり、朱元璋勢力の伸長を促した。1368年、大都放棄により支配はモンゴル高原へ退き、いわゆる北元期へ移行する。モンゴル的政治手続であるクリルタイや草原の連合構造は存続し、周辺世界への軍事・通交は断続的に続いた。元の対外展開については元の遠征活動も参照。
明の成立と洪武期の再編
朱元璋は1368年に即位して都を南京に置き、洪武期に国家財政・軍制・戸口統制の再編を断行した。里甲・保甲による徴糧・治安体制、衛所制による軍戸編成、法制の整備は、戦乱後の生産回復と秩序再建を意図したものである。対外関係では海禁を基調に公許交易を限定し、冊封・回賜をてこに周辺を統御する体制を敷いた。こうした政策は、征服政権の経験と漢地官僚制を接合する征服王朝的な統治の一形態であり、のちの勘合制・海上秩序の前提となる。
高麗末の改革と政権交代の前夜
高麗は恭愍王期に反元政策と内治刷新を進め、権門勢家抑制や僧侶還俗などの措置を試みたが、紅巾軍の侵入や貴族・軍事勢力の対立で混迷した。後半には崔瑩・李成桂ら軍事指導層が台頭し、1388年の威化島回軍で政治均衡が崩れる。科挙・田制の見直しや対倭寇対策は継続課題で、王権の正統性と現実政治の調停が問われた。こうした過程は、明との冊封関係に軸を置く朝鮮王朝の成立に接続する。
日本の南北朝内乱と海域秩序
日本では1330年代に南北朝に分裂し、足利尊氏の室町幕府が成立する。各地の守護権強化と荘園の再編が進み、在地領主の自立が拡大した。海域では博多・瀬戸内の港市や対馬・壱岐の中継が活発化し、密貿易や海賊行為が域内治安を脅かした。明初の海禁と勘合以前には、使節・商人・海民が複層的に往来し、国家の統制と私的利益が交錯した。朝鮮・明が海防と貢易を連動させると、日本側も統制枠内の貿易へ徐々に組み込まれていく。
港市ネットワークとモンスーン交易
14世紀の東アジア海域は、モンスーン季節風に依拠した航期の可視化、港市の専門分化、宗教・言語を横断する商人ネットワークの拡大が特徴である。中国沿岸では市舶司が交易・関税・治安を管掌し、泉州・寧波などの港湾が機能した。琉球では三山分立の下で中継貿易が伸び、1372年には中山王の明入貢が始まる。紅海・インド洋方面との結節は、海の道と内陸シルクロードをつなぐ環状構造を生み、制度化された朝貢と私的商業が折り重なった。
周辺世界と史料の視角
東アジアの変動は、西北の草原・オアシスや東南アジアの諸王国とも連動した。草原西部の金帳汗国やオルト・ウルスの動向、イルハン朝の解体は、通商路と貨幣流通に波及する。ユーラシア規模の政治・交易構造を捉えるためには、ペルシア語史書集史、中国正史・会要・律例、朝鮮・日本の実録・軍記の比較が有効である。ベトナムでは陳朝が終盤まで文化・官僚制を保持し、対外戦略と国内改革を併走させた(陳朝(ベトナム)参照)。
主要できごと(年次)
- 1300年代前半:元の財政悪化と交鈔の信用低下、各地で叛乱の兆候。
- 1336年:日本で南北朝の対立が本格化、室町幕府成立過程が進展。
- 1351年:紅巾の乱勃発、元の動揺が加速。
- 1368年:朱元璋が即位し明成立、元は北へ退く。
- 1372年:琉球中山王が明へ初入貢、海域中継の要に。
- 1388年:高麗の威化島回軍、政権交代の前夜。
- 14世紀末:洪武政権の法・軍・戸口再編が定着、海禁と公許交易の枠組み確立。
関連項目
広域征服と漢地統治の接合という視点は征服王朝の枠組みで理解できる。また、モンゴル期の政治手続であるクリルタイ、草原世界とロシアをめぐる動態、港市間の航期・関税・護送体制、そして港市ネットワークや儀礼と実利が交差する秩序は、季節風貿易およびインド洋交易圏の項とあわせて参照されたい。総体として14世紀の東アジアは、大帝国の崩壊と新王朝の建設、海域と内陸の接続強化が同時進行した時代である。