愛国社再興
愛国社再興とは、1875年(明治8年)に一度解散した政治団体である愛国社が、1878年(明治11年)9月に大阪で再び組織された歴史的過程を指す。この動きは、日本の自由民権運動が地方の士族中心の運動から、全国的な農民や豪農を巻き込んだ広範な政治運動へと脱皮する重要な転換点となった。当初、板垣退助らによって設立された愛国社は、大阪会議の影響で自然消滅に近い状態となっていたが、高知の立志社を中心とした民権派の再結集により、国会開設を求める強力な中央組織へと進化したのである。この再興によって、運動の目標は単なる政府批判から、具体的な国会開設の請願へと一本化されていった。
愛国社の創設と挫折
1875年、明治維新後の新政府内での権力争いや征韓論争に敗れた下野参議たちは、民撰議院設立の建白書を提出し、議会政治の実現を訴えた。これを受けて板垣退助らは、全国の民権派団体の連絡組織として愛国社を結成した。しかし、同年に行われた大久保利通ら政府高官との大阪会議において、板垣が参議に復帰することに同意したため、組織は求心力を失い、事実上の休止状態に追い込まれた。この時期の運動はまだ組織基盤が弱く、政府による言論弾圧や誘惑に対して脆弱であったことが、初期の挫折の要因として挙げられる。
再興の背景と地方結社の勃興
1877年の西南戦争が終結すると、武力による士族反乱の時代が終わり、言論による政治闘争が主流となった。高知県の立志社は、戦争中に政府へ「立志社建白」を提出するなど活動を継続しており、全国の有志に呼びかけて組織の立て直しを図った。当時、地租改正への不満を抱く豪農層や、知識人たちが各地で結社を組織しており、これらを統合するセンターとしての役割が再び求められたのである。愛国社再興の機運は、単なる懐古的なものではなく、地方のエネルギーを中央の政治変革へ結びつけるための必然的な要請であったといえる。
1878年大阪大会と組織の確立
1878年9月、大阪の料亭・花外楼において愛国社の再興大会が開催された。この会議には、高知、愛知、石川、岡山、鳥取などから多くの代表者が集い、組織の規約を定めた。再興された愛国社は、以前のような個人加盟の形ではなく、地方結社を単位とする連合体としての性格を強めた。これにより、全国規模での請願署名運動が可能となり、運動の組織力は飛躍的に向上した。愛国社再興は、バラバラであった地方の民権運動を一つのベクトルにまとめ上げる、調整機能としての役割を果たし始めたのである。
国会期成同盟への発展
再興後の愛国社は、1879年に行われた第2回、第3回の大会を経て、さらに強固な組織へと成長した。第4回大会において、愛国社はその名称を国会期成同盟へと改称し、文字通り「国会を開設させるための同盟」として、全国から数十万人分の署名を集める運動を展開した。この圧倒的な民意の盛り上がりに危機感を抱いた伊藤博文ら政府主流派は、開拓使官有物払下げ事件などの不祥事も相まって、1881年に「国会開設の勅諭」を出さざるを得なくなった。愛国社再興から始まった組織化の流れは、最終的に自由党の結成へと繋がり、日本の近代政党政治の礎を築いたのである。
愛国社における資金と運営
愛国社再興にあたって、大きな課題となったのは運営資金の確保であった。当時の活動資金は、主に加盟する地方結社からの分担金や、篤志家による寄付によって賄われていた。特に地方の豪農たちは、自らの社会的地位と権利を守るために多額の資金を提供し、運動を支えた。しかし、こうした資金調達の不安定さは、常に政府側の切り崩し工作の標的となり、後の運動の分裂や過激化を招く一因ともなった。組織運営の形態としては、以下のような特徴が見られた。
- 地方分権的な加盟形態:各地方の結社が独自性を保ちつつ、中央の意思決定に参加した。
- 定期的な全国大会の開催:大阪を中心とした交通の要所で集会を開き、情報の共有を図った。
- 機関紙を通じた啓蒙活動:新聞や雑誌を利用し、民権思想を広く国民に浸透させた。
政府の対応と弾圧の強化
政府は、愛国社再興によって組織化された民権運動を危険視し、集会条例や新聞紙条例を制定して厳しく取り締まった。特に大久保利通暗殺後の政府内では、秩序維持を最優先する動きが強まり、演説会の中止や指導者の逮捕が相次いだ。しかし、政府の弾圧が強まれば強まるほど、民権派の結束は固まり、運動は地下へ潜るか、あるいはより過激な抗争へと発展していくことになった。このような対立構造の中で、明治政府は独裁的な官僚政治と、議会導入による妥協の狭間で揺れ動くこととなったのである。