大都
大都は元朝の首都として建設された都城で、現在の北京の中核に重なる都市である。モンゴル帝国の政治中枢を漢地に据える構想のもと、フビライ政権が中原支配の拠点として新都を造営し、1272年に国号「元」の公布と歩調を合わせて大都の名が定着した。旧金の中都の北東に位置を取り、北へ皇城・宮城を配し、南へ市街と官庁を展開する独特の配置を採る。国際的には「Khanbaliq(汗八里)」の名で知られ、ユーラシア各地の使節・商人・信仰者が往来する広域都城として機能した。征服の伸長とともに南北の物資を集める交易拠点となり、宮廷・官司・市舶・宗教空間が重層する多文化都市として発展した点に、大都の歴史的特質がある。
建設の経緯と立地
新都計画は13世紀後半に本格化し、旧中都の経験と草原世界の王帳文化を融合した設計理念が採用された。宮城は都市北部に置かれ、中軸線上に宮殿空間と朝儀の場を整序する。建設初期から水利・土木が重視され、城郭・堀・湖沼を利用した都市防御と景観形成が同時に追求された。近郊の通州は南方からの輸送拠点として整備され、ここから城内外の水路へと分配されることで、大都の人口扶養と宮廷供給が安定化した。
都市計画・城郭・水利
大都は方形城郭・碁盤状街路・正中軸の三原則を基調とし、城壁・城門・街区・市(いち)・官署が秩序立って配置された。北高南低の地勢を読み込んだ水系設計により、城内の湖沼・濠は防衛と舟運・景観を兼ねる。道路は官衙・市場・手工業区を接続し、駅逓・詰所が各所に置かれて遊牧的な移動統治と定住都市の運用を橋渡しした。これらの配置はのちの北京城に継承され、明清期の空間構造の雛形を提供した。
政治中枢と官司の配置
中央政府は中書省・枢密院・御史台などの官司を中軸線沿いに集め、宮城の儀礼空間と行政空間を明確に区分した。モンゴル人・色目人・漢人・南人など多元的なエリートが分掌し、軍政・財政・交通・市舶の各機構が重層的に統合される。対チベット仏教政策を担う機関や寺院群も都市北側に展開し、王権の宗教的正統性を可視化した。対外遠征と冊封秩序の運営は、都城の官僚制と軍事・物流資源の動員によって支えられた(関連: 元の遠征活動)。
経済・交通と運河ネットワーク
南方の穀物・塩・絹・陶磁・金属資源は大運河系と北方水路で通州へ集まり、舟運・陸送を組み合わせて城内外の倉廩と市場へ配分された。大都は国家財政の集散地として税と専売の収受を担い、宮廷・軍糧・都市経済を一体で駆動した。華北・江南の既存都城で培われた水運・市場運営の知見も吸収され、唐宋由来の都市経済の経験が、モンゴル帝国の広域統治の中で再編された(関連: 宋、汴州、洛陽)。
- 通州—城内湖沼—内外濠を結ぶ水系で大量輸送を実現
- 榷貨・塩政などの統制により市場と財政を安定化
- 市舶・行会・手工業区の分節化で生産と流通を効率化
宗教・文化と多民族社会
大都ではチベット仏教・漢地仏教・イスラーム・景教・儒教などが共存し、寺院・モスク・祠廟が都市景観を彩った。宮廷は学芸保護にも意を用い、書画・工芸・劇曲・天文暦法が発展する。宮廷と市井の双方で雑劇・曲の上演が行われ、言語・音楽・装飾の面で草原文化と漢地文化の融合が観察できる。宮廷に仕えた文人や書家の往還は、都城を学芸ネットワークの要に位置づけた。
対外交流とユーラシアの往来
フビライ期以降、イル=ハン朝・チャガタイ・ジョチ・西方諸政権との使節往復・商隊流通が活性化し、大都は外交・法貨・度量衡・駅逓制を媒介に広域秩序へ結節した。西アジアではラシードゥッディーン『集史』が宮廷図像と記録を残し、東西の情報は都城で集積・再配分された。北西方面の草原路・オアシス路の再編は、金帳汗国との交易・朝貢枠組みとも連動する(関連: イル=ハン国、キプチャク=ハン国、称号体系: 可汗)。
明代への継承と都市の持続
14世紀後半、明軍の北伐で大都は放棄され、北元が草原へ退いたのちも都市空間の骨格は残存した。明は北方経略を視野に城郭・宮城を再編し、のちに永楽帝が本格的に宮殿・街路・祭祀空間を整備して北京に遷都する。こうして元代に確立された北宮南市・中軸線・水系の基本設計は、明清北京の都城美学と実務機能に長期の影響を与えた。都市の「持続」と「再編」の両義性が、大都の歴史的位置を際立たせる。
名称と史料の補説
大都は漢文史料で「大都」「京師」と記され、西方・ペルシア語系では「Khanbaliq(汗八里)」の名で広まった。城下・近郊を含む広域都市圏を指す場合と、宮城・皇城・市街を厳密に区分する場合があり、文脈によって射程が異なる。対外史料では『集史』ほか旅行記・商隊記録が宮廷・都市景観・制度を伝え、漢地史料は官司配置・科目・土木といった行政・工学的情報に富む。異文化史料の照合は、大都の実像復元に不可欠である。