土木の変
土木の変は、明の正統14年(1449年)に起きた北方危機である。英宗(朱祁鎮)が宦官王振の主導で親征し、オイラトの指導者Esen Taishiの機動戦に翻弄され、土木堡で皇帝が捕虜となった事件を指す(英語: Tumu crisis)。北京は于謙の統率で辛うじて守られ、英宗の弟・朱祁鈺が景泰帝として即位した。のちに英宗は帰還し、奪門の変(1457年)で復位する。この敗北は、明の対北方戦略を遠征主義から守勢と城塞・辺鎮の強化へと転換させ、政治面でも宦官と文官、軍権の力学に長期の影を落とした。
背景
永楽期の大規模遠征で北元勢力は一時後退したが、15世紀半ばにはオイラトが台頭し、Esen Taishiが草原交易と朝貢の主導権を握った。明廷は北辺の軍糧と馬政を抱え、国境市場や互市の調整に失敗すると衝突が激化した。正統年間、若年の英宗を取り巻く王振の専断は軍政を歪め、対草原政策は抑止と威示を急ぐ近視眼へ傾いた。
出兵と敗北
1449年、英宗は大軍を率いて大同方面へ進出したが、補給線は伸び、将帥間の統一も欠いた。Esenは接近戦を避けて騎射で疲弊させ、退路を衝く。土木堡周辺での退却時、明軍は陣形を崩し、親衛も潰走した結果、英宗は俘虜となり、王振は戦死した。野戦の原則を無視した長駆と補給の杜撰さが致命傷となったのである。
北京防衛と政変
皇帝不在の非常時、兵部尚書・于謙は兵站の再編、城門と火器の配備、民心の安定を断行して北京を死守した。朝廷は継嗣の安定を優先し、朱祁鈺を景泰帝に擁立する。Esenは威圧外交で開城を迫るが、堅守に屈し、講和へ傾く。こうして明は首都陥落を回避し、国家の継続性を確保した。
外交と帰還
Esenは北京攻略に失敗し、交易再開と引換えに体面を保つ策へ転じた。英宗は1450年に帰還するが、太上皇として幽閉に近い境遇に置かれる。景泰朝は北辺の城塞線・屯田・軍戸の整備を進め、出撃よりも警備と輪換を重視した。1457年、英宗は奪門の変で復位し、于謙は逆臣として処断されるが、北京防衛の功は後世に高く評価される。
影響と歴史的意義
本事件は、(1)遠距離親征の限界と補給重視の教訓、(2)辺鎮・堡寨・烽火網を核とする防衛ドクトリンの定着、(3)宦官政治の肥大と軍政統制の脆弱性、(4)朝貢・互市という制度的外交の重要性、を浮き彫りにした。以後の明は長城線の段階的補修や北辺の常備化を進め、草原勢力に対し消耗戦を避ける「持久の守」を基本とした。
用語と年次
- 正統14年(1449年):土木堡での敗戦と皇帝捕縛
- 景泰元年(1450年):英宗の帰還、太上皇化
- 天順元年(1457年):奪門の変で英宗復位
- 鍵語:于謙、王振、Esen Taishi、土木堡、互市・朝貢、辺鎮・堡塞
関連項目
- オイラト:草原勢力の中核で、事件の主導者勢力。
- エセン=ハン:Esen Taishiとして知られる指導者。
- タタール:明史料にみえる北方諸勢力の通称。
- 韃靼:草原系諸集団の呼称の一つ。
- 勘合貿易:明の朝貢秩序と対外交易の制度枠。
- 日明貿易:東アジア海域における明の交易関係。
- 足利義満:明との冊封・通交体制確立に関与。
- 黎朝:同時期の東南アジア情勢理解の参照項。