オイラト
オイラトは、モンゴル高原西部からアルタイ・ジュンガル一帯に展開した西モンゴル系の部族連合である。中世には東方のハルハ諸勢力と拮抗し、モンゴル帝国崩壊後の再編過程で独自の連合体を形成した。近世にはジュンガル(Dzungar)を中心に強大化し、タリム盆地からイリ方面に至る草原とオアシスの交通・通商を統制した。清朝との長期抗争ののち18世紀中葉に征討を受けて瓦解するが、宗教・文字・遊牧経営・隊商交易の諸側面で広域史に深い痕跡を残した集団である。彼らはモンゴル語群の一支を用い、政治的には諸部の合議と有力首長の主導が交錯する柔構造を特質とした。
名称と位置づけ
名称オイラト(Oirat)は「同盟・結合」を語源に持つと解され、主要構成にはチョロス、ドルベト、ホショート、トルグートなどが含まれる。彼らはモンゴル民族の一角として、草原世界の権力地図において東西の均衡を担った。チンギス・カン期には大帝国の拡張に組み込まれ、分裂後は西方境域の再編に関与した。帝国史の文脈ではモンゴルの大帝国の後継秩序に位置づけられ、草原とオアシスの接合地帯で勢力を伸ばした。中世前史の比較対象としては、同じ草原の強豪であるナイマンの動向が参照される。
政治構造と軍事
オイラトの政治は、諸部族の合議・婚姻関係・恩顧の再配分によって維持され、有力な太師級の指導者が連合の求心力を担った。動員は騎射を基盤とする遊牧軍事力に依存し、地方単位の統御は帝国期以来の十進軍制の影響を受けたと考えられる。軍政の基礎概念は、千・万の編成を用いる千戸制に示されるように、人・家畜・物資を束ねる実務的な枠組みであり、遠征と移牧、駅伝・課税が結びついた。
近世の展開―ジュンガル・ハン国
17〜18世紀、チョロス系を主柱とするオイラト連合はジュンガル政権として台頭し、天山北路・イリからタリム盆地のオアシスにまで影響力を及ぼした。隊商路の要衝を押さえ、オアシス都市の収取と保護を組み合わせることで財政を確立し、東はモンゴル高原、南は青海・チベット方面とも結節した。ジュンガルは清朝と多段の戦争を繰り返し、18世紀中葉に征討を受けて崩壊し、その版図は清帝国に編入された。この過程は、後の新疆編成や東トルキスタンの政治秩序の再構築と密接に結びつく。
宗教と文字文化
オイラトはチベット仏教(特にGelug派)と深く結びつき、宗教的ネットワークを政治的結束の資源として活用した。17世紀には僧侶ザヤー・パンディタが音価と綴字の一致を高めた「清文字(Todo/Clear script)」を整備し、教典翻訳と法令伝達を標準化した。モンゴル系文字文化の系譜の中で、この革新は縦書き連結文字の機能を拡張し、地域的変種の標準化という観点でも画期であった。文字史の脈絡はモンゴル文字の展開と連続して理解される。
経済と交易ネットワーク
草原の遊牧経営は可動的な群れ管理と季節移動を中核に持ち、隊商・辺境市場・朝貢交易と結びついていた。ジュンガル期のオイラトは、馬・羊・皮革・塩・茶・穀物・工芸品などの循環を制御し、オアシスの灌漑農業と草原の移牧を補完関係に置いた。こうした広域流動性は、モンゴル帝国以来の交通・通信の遺産を背景とし、ユーラシア規模の交流圏の一部として理解される。時代像の把握にはモンゴル時代のユーラシアの視座が有効である。
史料・呼称と用語上の注意
オイラトは、漢文史料では「瓦剌」「衛拉特」など多様に記され、地域・時代により指す範囲が揺れる。ジュンガル政権のみを狭義で指す場合と、西モンゴル系諸部の広義を意味する場合があるため、文脈確認が不可欠である。史料批判の観点からは、遊牧勢力の分合・再編の速さ、家産的結合と軍政編制の共存、宗教ネットワークの媒介といった特性を踏まえて読むことが求められる。
関連項目
- モンゴル民族と西モンゴルの位置づけ
- 帝国崩壊後の分立とモンゴルの大帝国の後継秩序
- 草原・オアシス連結としてのモンゴル時代のユーラシア
- 軍政と移動動員の枠組みである千戸制
- 縦書き連結文字の系譜としてのモンゴル文字
- 征服後の編成と省制化に至る新疆・タリムの統合
- オアシス交易の政治空間としての東トルキスタン
- 草原部族史の比較素材となるナイマン