国王の宣言|王権と国家統治の方針を示す布告

国王の宣言

国王の宣言は、1763年にハノーヴァー朝のイギリス国王ジョージ3世によって発布された勅令であり、七年戦争後に拡大した北アメリカ帝国を再編し、植民地の西方進出と先住民との関係を統制することを目的としていた勅令である。新たに獲得したカナダやオハイオ流域などの広大な領域に対し、イギリス本国政府が直接的な支配を強めるとともに、アパラチア山脈以西を「インディアン保留地」として区画することで無秩序な開拓と紛争の拡大を抑えようとした点に特色がある。この勅令は、北アメリカ植民地社会において土地投機や西方進出を望んだ植民者の反発を招き、のちにアメリカ独立革命へとつながる不満の一要因として位置づけられている。

成立の背景

18世紀半ば、イギリスとフランスは北アメリカの覇権をめぐる戦争、いわゆるフレンチ・インディアン戦争(七年戦争の北米戦線)を戦い、イギリスはケベックやオハイオ流域を含む広大な領土を手に入れた。これにより、英領北アメリカはアパラチア山脈を越えて内陸部へと急速に拡大し、開拓者や土地投機家が先住民社会の領域へ入り込む動きが加速した。このような状況は、すでに形成されていた北アメリカ植民地の形成の構図を大きく変えるものであった。

一方で、戦争によって財政負担が増大したイギリス本国政府は、軍事費と植民地防衛の費用を抑えながら広大な征服地を維持する新たな統治方針を必要としていた。さらに1763年には、内陸部で先住民が蜂起したポンティアック戦争が勃発し、英国軍や開拓民に対する攻撃が相次いだ。こうした危機は、イギリス政府に対し、先住民との関係を安定させ、国王の名のもとに北アメリカ帝国の秩序を再構築する政策を求め、その回答として国王の宣言が構想されたのである。

宣言の主な内容

国王の宣言は、勅令という形式で公表され、北アメリカにおける領域区分と統治の原則を示した。とくにアパラチア山脈に沿って引かれた「宣言線」は、東側を英領植民地の開拓地、西側を先住民のための保護地域とみなす境界線として位置づけられた。この線以西への無許可の移住や土地購入は違法とされ、あらゆる土地取引は国王政府の管理下に置かれることとなった。

  • アパラチア山脈を基準とする宣言線を設定し、その西側を先住民の居住・狩猟地域として保全すること。
  • 先住民からの土地購入を王権の専権事項とし、私的な土地投機や無許可の取得を禁止すること。
  • ケベックや東・西フロリダなど、新たに獲得した地域に王領植民地を設置し、王直属の総督による統治を行うこと。
  • 毛皮交易などのフロンティア貿易を規制し、特許を与えられた商人のみが先住民との取引を行えるようにすること。

先住民政策と宣言線

国王の宣言における宣言線は、先住民との恒久的な境界を確立する試みであり、イギリス政府は条約を通じて先住民社会の土地権を一定程度認めた。これは軍事的・財政的負担を減らすために、先住民との大規模な戦争を回避するという現実的な配慮に基づいていたといえる。また、毛皮貿易を安定させ、イギリスの商人資本に利益をもたらすことも意図されていた。

後世の歴史学では、この宣言が先住民の土地権を法的に承認した「出発点」として評価されることがある。カナダ史においては、1763年の勅令が先住民との条約関係や土地請求の根拠とみなされ、「インディアンのマグナ・カルタ」と呼ばれることもあり、アメリカ史だけでなく大英帝国全体の文脈で重要な意味を持つと解されている。

植民地社会の反応

国王の宣言は、イギリス本国にとっては秩序維持の妥協策であったが、北アメリカ植民地社会では大きな不満を引き起こした。内陸部への移住を計画していた開拓民や、オハイオ流域の土地投機に関与していた植民地エリートにとって、宣言線は経済的機会を奪う障害と映ったのである。とくにヴァージニアなどでは、ジョージ・ワシントンを含む有力層が西方の土地権を主張しており、勅令はその権利を無にするものと受け取られた。

さらに、宣言線は現実には十分に守られず、多くの移住者が違法な形で西方に進出したため、フロンティアでは衝突が続いた。イギリス政府は軍隊を駐留させて規制を試みたが、その費用は新たな課税の正当化に用いられ、のちの印紙法やタウンゼンド諸法などを通じて植民地に転嫁されていく。こうした過程で、植民者は本国議会やジョージ3世の権威を疑い、植民地側の政治機関である植民地議会の権利を強く意識するようになった。

アメリカ独立革命への影響

国王の宣言は、その後すぐに独立運動を引き起こしたわけではないが、植民地住民の間に「本国政府は植民地の発展を抑えつけている」という印象を与えた長期的要因であった。西方の土地をめぐる不満は、課税問題や通商規制への反発と結びつき、帝国統治への不信を深めた。とりわけ、辺境地帯の白人開拓民や小農民にとって、宣言線は社会的上昇の機会を制限する象徴として受け取られた。

18世紀後半には、ヴァージニアやマサチューセッツなどの植民地で、土地問題や代表制をめぐる政治闘争が激化し、一部ではベーコンの反乱のような先行する運動も想起されながら、帝国支配への抵抗が広がった。西方進出の制限は、のちに西部フロンティアをめぐる連邦政府と各州、先住民との関係に引き継がれ、独立後の合衆国でも重要な政治課題であり続けた。

その後の展開と歴史的意義

独立戦争の過程で、アメリカ側はしばしば国王の宣言を、植民地の自由な発展を抑圧する専制的政策の一例として批判した。しかし、実際には勅令は不完全ながらも先住民との共存と帝国秩序維持を図る妥協の産物であり、その法理はその後も変形されつつ生き続けた。カナダや一部の英国植民地では、1763年勅令が先住民との条約締結や土地交渉の根拠とされ、近代に至るまで法的・政治的議論の対象となっている。

このように、国王の宣言は、単にアメリカ独立の「前史」としてだけでなく、帝国統治・植民地社会・先住民との関係をめぐる長期的な問題を可視化した出来事として理解されるべきである。北アメリカ植民地の西方政策は、のちのペンシルヴェニアジョージアの開拓、また宗教的移住者を受け入れたクウェーカープリマスなど多様な植民地社会の歴史とも結びつき、帝国と植民地の相互作用を考える上で欠かせない論点となっている。