ベーコンの反乱
ベーコンの反乱は1676年にヴァージニア植民地で起こった武装蜂起であり、タバコ経済に依存した植民地社会における貧富の格差、先住民との衝突、総督権力への不満が一体となって爆発した事件である。指導者ネイサン・ベーコンが総督ウィリアム・バークリーに反旗を翻し、一時は植民地首都ジャムズタウンを占領・焼き払ったこの反乱は、のちのアメリカ社会における人種関係や奴隷制の強化、さらには抵抗の政治文化に深い影響を与えた出来事として位置づけられている。
背景:ヴァージニア植民地社会とフロンティア
17世紀のイングランド本国は王政復古後、タバコを主要輸出品とするヴァージニア植民地を重商主義的政策のもとで統制していた。大農園主は広大な土地と奴隷・年季奉公人を支配し、植民地議会や官職を独占する一方、小規模農民や元年季奉公人はフロンティア地帯へ追いやられ、先住民との境界紛争にさらされていた。総督バークリーはタバコ貿易や毛皮取引の利害から先住民との全面戦争を避け、要塞建設など防御策を重視したが、重税や閉鎖的な支配体制はフロンティア側の不満を強めていった。
ネイサン・ベーコンの登場と植民地支配への不満
反乱の指導者となったネイサン・ベーコンは、比較的新しく入植した地主でありながら、フロンティア農民の不満を代弁する存在となった。彼やその支持者たちは、先住民の襲撃に対して総督府が十分な軍事行動を取らないこと、総督と少数の大農園主が貿易の利権を独占していることに強い怒りを抱いていた。こうした状況のもとで、ベーコンの反乱は単なる対先住民戦争を求める運動にとどまらず、植民地支配エリートへの政治的抗議としての性格を帯びていったのである。
反乱の勃発とジャムズタウン占拠
1676年、ベーコンは総督の許可なく民兵を組織して先住民への攻撃を開始し、反乱の首謀者として指名手配されると、かえって多くのフロンティア農民や不満を抱く白人年季奉公人が彼の軍に合流した。やがてベーコン軍は首都ジャムズタウンへ進軍し、総督バークリーを追放して町を占領、のちに戦術上の理由から自ら火を放って放棄したと伝えられる。この過程で、植民地の統治機構そのものが武装勢力によって挑戦されるという異例の事態が生じた。
反乱の鎮圧とその直後の変化
ベーコンの反乱は、ベーコン自身が病死すると急速に求心力を失い、ロンドンから派遣された部隊と総督側勢力によって鎮圧された。指導者層の一部は処刑・財産没収を受けたが、本国政府は総督バークリーによる過酷な報復を批判し、彼を召還して統治の是正を図ったとされる。反乱後、王権は植民地への監督を強化しつつも、フロンティア農民の不満を和らげるための一部改革も行われ、支配層は同様の大規模蜂起を防ぐ方策を模索していくことになった。
白人貧農と黒人奴隷の分断
支配層が学んだ最大の教訓は、白人貧農とアフリカ系の人々が共通の不満から結びつくことの危険であったとされる。反乱には白人年季奉公人と黒人奴隷の双方が参加したと伝えられ、支配者にとってそれは恐るべき連帯であった。その後、プランテーション経営においては、白人貧農には一定の政治的権利や「自由白人」としての優越意識を与える一方、アフリカ系住民には終身奴隷身分を課す黒人奴隷制を法的に強化する方向へと政策が進んだ。こうして、肌の色に基づく身分秩序が南部植民地社会に固定化されていく。
イギリス帝国支配と植民地自治の緊張
イギリス本国にとって、ベーコンの反乱は大西洋彼方の植民地における統治の難しさを示す事件であった。王政復古後の君主政府は航海法などを通じて帝国経済を統合しつつ、植民地議会の権限を制限しようとしていたが、武装蜂起の経験を通じて、植民地側には自らの安全と課税に関して発言する権利意識が徐々に育まれていく。ピューリタン的な政治参加の伝統もあいまって、「統治される者の同意」と「代表なくして課税なし」という観念が、のちの時代の政治文化の基盤となっていった。
後世から見た歴史的意義
ベーコンの反乱は、のちの名誉革命やアメリカ独立革命と直接つながる出来事ではないが、植民地社会の内部でエリート支配に対する暴力的な抗議が実際に起こりうることを示した点で重要である。また、この反乱を契機として人種化された奴隷制が強化されたことは、アメリカ合衆国成立以後も続く人種不平等の歴史的根源の一つとされる。ベーコンの反乱は、フロンティア拡大、帝国支配、社会的亀裂が交差する17世紀大西洋世界の縮図として、現在も多くの歴史研究の対象となっている。