ジョージア
ジョージアは、北アメリカ東海岸の最南端に位置するイギリス第13番目の植民地として創設され、のちにアメリカ合衆国の一州となった地域である。1730年代に国王ジョージ2世から勅許を受け、負債を抱えた貧民の救済とスペイン領フロリダに対する軍事的緩衝地帯という二重の目的をもって建設され、のちのアメリカ独立革命の舞台の一部となった。
イギリス植民地としての成立
1732年、慈善家ジェームズ・オグルソープらが勅許を得てジョージア植民地の設立を認められた。当初は小規模自作農を理想とし、大土地所有の制限や奴隷制度の禁止が定められた。これは、他の北アメリカ植民地の形成で見られた大農園社会とは異なる実験的な試みであり、先住民との同盟を通じてスペイン勢力の北上を防ぐことが期待された。
初期入植と境界防衛
最初の入植地はサバナであり、計画都市として区画整理された。オグルソープは要塞や道路を整備し、先住民クリーク族との条約を結んでジョージアの安全保障を図った。ニューイングランドのプリマスやメイフラワー号で知られる敬虔な清教徒移民と比べると、ここでは軍事的・戦略的性格がより強く、植民地経営は厳しい規制への不満から必ずしも順調とはいえなかった。
植民地社会と経済構造
やがて入植者の要望を受けて規制は緩和され、1750年代には奴隷制が合法化される。これによりジョージアでも米やインディゴなどを栽培するプランテーションが拡大し、南部植民地と共通する農業社会が形成された。一方で、山間部には小自作農や開拓民が多く、社会構造は一様ではなかった。
アメリカ独立革命とジョージア
ジョージアは13植民地の中で比較的成立が遅く、イギリス政府との結び付きも強かったため、独立運動への参加は当初慎重であった。しかし、印紙法やタウンゼンド諸法に対する抵抗が広がると、ボストンを中心とする愛国派の動きやピルグリムファーザーズ以来の宗教的自由の伝統に刺激され、1776年には他の植民地と共に独立宣言に参加した。
独立戦争中、サバナはイギリス軍に占領され、南部戦線の重要拠点となった。1779年のサバナ包囲戦ではフランス軍とアメリカ軍が奪回を試みたが失敗し、ジョージアの大部分は終戦近くまで王党派とイギリス軍の支配を受けた。それでも内陸部ではゲリラ的抵抗が続き、戦後には新国家の一州として再編された。
合衆国成立後の発展
合衆国成立後、ジョージアでは綿花栽培が急速に拡大し、綿繰り機の普及とともに奴隷労働への依存が強まった。先住民チェロキーやクリークの土地は条約や強制移住によって奪われ、西進する白人農民や大農園主のために再分配された。この過程はのちの「涙の道」と呼ばれる悲劇につながり、南部社会の構造はのちの都市の変容にも影響を与えた。
南北戦争とその後
19世紀半ば、奴隷制をめぐる対立が深まると、ジョージアは他の南部諸州とともに合衆国から脱退し、南部連合に参加した。南北戦争では首都アトランタが北軍シャーマン将軍の「海への行進」で焼き払われ、戦後は再建期を経て工業化と都市化が進展した。この過程で労働時間や工場環境をめぐる問題から工場法や労働組合の必要性が議論され、現代の南部経済と社会の基盤が形成されていった。