工場法
工場法は、19世紀の産業革命によって拡大した工場労働を規制し、労働者、とりわけ児童や女性を保護することを目的として制定された法律である。イギリスでは1810年代以降、綿工業を中心に長時間労働や児童労働が深刻化し、産業資本家の利益追求と労働者の健康・生活との緊張が強まった。この問題に対し、宗教家や医師、改革派政治家などが世論を喚起し、国家が労働条件に介入する根拠となった最初期の社会立法が工場法である。
制定の背景
イギリスの産業革命では、蒸気機関と機械制工場の導入により、生産は飛躍的に増大したが、その裏で低賃金・長時間労働・過酷な児童労働が広がった。とくに紡績・織布工場では、10歳未満の子どもが夜通し働く例も多く、工場地帯の衛生状態も悪化した。こうした状況は、すでに社会問題として意識されていた労働問題を一層深刻化させ、慈善家や改革派議員が工場視察報告を公表し、議会で規制立法を訴える土台となった。
初期の工場立法の展開
最初期の試みとしては、1802年の徒弟健康・道徳法が挙げられるが、実効性は乏しかった。本格的な工場法は、綿工場を対象とする1819年法に始まり、その後1833年法により大きく前進した。背景には、機械導入への反発として起こったラダイト運動や、失業と賃下げに抗議した機械うちこわし運動、さらには政治的権利拡大を求めたピータールー事件など、一連の社会的緊張があった。支配層にとっても、無規制の放置は秩序不安を招くとの危機感が強まり、限定的ながら国家介入を認める方向へ傾いたのである。
1833年工場法の内容
1833年の工場法は、イギリス工場立法の転換点とされる。この法律は主に繊維工場を対象とし、児童・少年労働について次のような規制を導入した。
- 9歳未満の児童の雇用禁止
- 9〜13歳の労働時間を1日8時間までに制限
- 13〜18歳の労働時間を1日12時間までに制限
- 夜間労働の禁止と日曜労働の制限
- 児童への就学義務を課し、教育と労働の両立を図る規定
さらに、国家が任命する工場監督官制度を設け、現場を検査させた点は画期的であった。これは、従来の自由放任に基づく経済思想に対し、労働条件については国家が一定の責任を負うという新しい原則を示したものである。
1844年法と10時間法
1833年以後も、労働者保護を求める動きは続き、1840年代には女性労働や危険機械の規制も議論の対象になった。1844年の工場法は、婦人および13〜18歳の少年の労働時間短縮と安全装置の義務化を進めた。続く1847年のいわゆる10時間法は、婦人と少年の労働時間を原則1日10時間に制限し、労働時間の上限を明確に示した点で重要である。背後には、政治的民主化運動として知られるチャーティストや、工場都市バーミンガムなどの労働者による請願運動があり、社会改革と政治運動が結びついていた。
工場法と労働運動・自由主義
工場法は、初めは資本家の経済的自由を侵すものとして激しい反対を受けたが、時間の経過とともに市場秩序の維持に不可欠な制度として受け入れられた。労働側から見ると、早くから団結禁止法の撤廃と並んで、劣悪な労働条件を是正する手段とみなされ、後の労働組合運動と結びつき、賃金闘争だけでなく立法を通じた環境改善という方向を開いた。こうして自由な契約を重視する古典的自由主義の枠内に、国家による最低基準の設定という発想が組み込まれていったのである。
各国への波及と日本の工場法
イギリス型の工場法は、その後、フランスやドイツなど大陸諸国でも採用され、児童・女性保護を柱とする社会立法として広がった。日本でも、明治後期に紡績産業などで長時間労働が問題化し、欧州の制度を参照しながら1911年に日本の工場法が制定された。この法律は、主として女子と年少者を対象に労働時間・深夜業を制限し、日本における近代的労働保護立法の出発点となった。こうした流れは、近代国家が労働問題を公的課題として扱い、社会政策によって資本主義の矛盾を調整しようとする方向を象徴している。
歴史的意義
工場法は、単なる児童・女性保護の法律にとどまらず、国家が経済社会に介入し、最低限の生活・労働条件を保障するという近代福祉国家への道を開いた。工場監督制度や時間規制は、後の労働基準法制の原型となり、賃金・災害補償・失業保険など多様な制度へと発展していく。イギリスの経験は、暴力的な抵抗よりも、立法と組織化された運動による改善が有効であることを示し、労働組合運動や社会政策思想の展開に大きな影響を与えたのである。