国民党と共産党
近代中国の政治史は、国民党と共産党の協力と対立の歴史であると言ってよい。清朝の崩壊後、列強の干渉と国内の軍閥割拠が続くなかで、民族独立と国家統一を掲げた孫文の革命運動から中国国民党(国民党)が生まれ、マルクス主義に基づく中国共産党(共産党)がこれに続いた。両党は一時的に連携しつつも、路線対立から内戦に突入し、やがて中華大陸における政権の帰趨をめぐる長期の闘争へと発展した。
成立の背景
両党の成立は、列強の半植民地支配と清朝体制の動揺という共通の歴史的条件のもとで進んだ。1911年の辛亥革命によって清朝は倒れたが、新たに誕生した中華民国は軍閥の割拠と政治的混乱に苦しんだ。1919年の五四運動では、対外的不平等条約への反発と民主・科学を掲げる新文化運動が高まり、民族主義と反帝国主義、社会変革の思想が広く知識人・学生層に浸透した。この環境の下で、民族革命政党としての国民党と、社会主義革命を志向する共産党がそれぞれ組織化されていった。
国民党の性格と路線
中国国民党は、孫文の唱えた三民主義(民族・民権・民生)を基本理念とし、帝国主義の打倒と国家統一、近代的な共和国家の樹立をめざした政党である。1920年代には蒋介石の指導のもとで党と軍が一体となり、北伐によって軍閥を打倒し全国統一を進めた。階級闘争よりも国家建設を優先させ、地主や資本家も含む広範な民族統一戦線を構成しようとした点に特色があるが、その一方で党国体制を通じた権威主義的統治や、都市と沿海部に偏った近代化政策も指摘される。
共産党の性格と路線
中国共産党は、ロシア革命とコミンテルンの影響を受けて1921年に結成されたマルクス・レーニン主義政党である。当初は都市労働者の組織化と社会主義革命を掲げたが、挫折を経て毛沢東らの指導のもと、農村を基盤とする長期の人民戦争路線へと転換した。土地革命を通じて貧農・小作農の支持を獲得し、党・軍・大衆組織を結びつけた独自の革命根拠地を形成した点に特徴がある。共産党は国民党の民族統一の掲げる課題を認めつつも、その実現を労農を中心とする新しい国家権力の樹立と結びつけて構想した。
第一次国共合作とその崩壊
1920年代前半、帝国主義や軍閥に対抗するため、コミンテルンの仲介により両党は第一次国共合作を結び、国民党の組織に共産党員が参加する形で統一戦線を形成した。黄埔軍官学校における軍事訓練や北伐はその成果であり、対外的には不平等条約の改正、国内的には軍閥支配の打破が進んだ。しかし、社会運動の高揚と共産党勢力の伸長を警戒した国民党右派は、1927年に上海クーデタなどで共産党勢力を弾圧し、第一次国共合作は崩壊した。この分裂を契機に両者の対立は本格的な内戦へと転じる。
抗日戦争と第二次国共合作
1930年代、日本の中国侵略が深まるなかで、民族危機に直面した両党は再び統一戦線形成を迫られた。西安事件を経て第二次国共合作が成立し、名目上は国民党政府のもとで全民族的な抗日体制が整えられた。国民党は正規軍による会戦を重視し、共産党はゲリラ戦を通じて農村での抗日根拠地を拡大するなど、戦い方や支配スタイルには違いがあったが、日本に対する抵抗が続くなかで共産党の大衆的基盤は一層強化された。
内戦再開と中華人民共和国の成立
日本の敗北後、戦後中国の政治体制をめぐって両党の対立は再燃し、1946年から再び全面的な内戦に突入した。国民党は正規軍と国際的承認を有していたものの、長期戦争による疲弊や腐敗、インフレの進行などで民衆の支持を失った。他方、共産党は農地改革と組織力を背景に勢力を拡大し、最終的に1949年、北京で中華人民共和国の成立を宣言した。国民党は台湾へ退き、そこに中華民国政府を維持したことで、両者の対立は以後も海峡を挟んで継続することになった。
両党の比較と歴史的意義
国民党と共産党は、ともに帝国主義の支配を打ち破り中国を統一しようとした点では共通するが、国家像と社会構想において大きく異なっていた。国民党は三民主義に基づく近代国民国家の建設を掲げ、エリート主導の国家建設を優先したのに対し、共産党は階級闘争と土地革命を通じた民衆主体の新国家権力を構想したと言える。両党の協力と対立の過程は、中国における近代国家形成と社会革命が、民族問題・階級問題・対外関係の交錯する複雑なプロセスであったことを示しており、その影響は現代中国と東アジア国際秩序のあり方にまで及んでいる。