叡尊(思円)
叡尊(思円)(えいそん/しえん)は、鎌倉時代中期に活動した僧侶であり、真言律宗の開祖として知られる人物である。字(あざな)は思円、諡号(しごう)は興正菩薩(こうしょうぼさつ)という。平安時代末期から鎌倉時代にかけて形骸化していた仏教の戒律を復興させることを志し、南都(奈良)の西大寺を拠点に、学問としての律だけでなく、実践的な救済活動を重んじる教団を組織した。叡尊(思円)の活動は単なる宗教改革に留まらず、社会福祉や土木事業、動物愛護など多岐にわたり、当時の社会に多大な影響を与えた。
生い立ちと密教の修学
叡尊(思円)は建仁元年(1201年)、大和国添上郡箕田里(現在の奈良県大和郡山市)に生まれた。父は興福寺の学僧である慶玄である。11歳で醍醐寺に入り、密教(真言宗)の修行を開始した。当時の叡尊(思円)は真言宗の奥義を極める一方で、当時の僧侶たちが戒律を軽んじ、名利に走る腐敗した現状に強い疑問を抱くようになった。この時期の苦悩が、後に彼を戒律復興へと向かわせる原動力となった。
自誓受戒と戒律の復興
叡尊(思円)が目指したのは、釈迦の時代に近い厳格な戒律の復活であった。嘉禎2年(1236年)、彼は覚盛や有厳らと共に東大寺にて「自誓受戒(じせいじゅかい)」を敢行した。これは、正式な伝戒師(師匠となる僧)が不在の状況下で、仏前で直接戒を誓う特別な儀式である。これにより、途絶えかけていた律宗の法灯を再び灯すことに成功した。叡尊(思円)は、密教の加持祈祷と律の厳格な規律を融合させた独自の教義を確立し、これを機に衰退していた西大寺へと移り、その再興に着手することとなった。
社会救済と慈善活動
叡尊(思円)の思想において特筆すべきは、「文殊信仰」に基づいた弱者救済である。彼は「貧窮、孤独、苦厄の者は、文殊菩薩の化身である」と説き、非人(差別された人々)や病者への施しを積極的に行った。
- 非人宿への出入りと、病者への衣服・食料の提供。
- 殺生禁断(殺生を禁じること)の徹底と、放生(捕らえた生物を放すこと)の推奨。
- 宇治橋の修築など、公共性の高い土木事業への関与。
- 蒙古襲来(元寇)の際の異国降伏祈祷による国家安寧への寄与。
これらの活動は、当時の貴族や武士だけでなく、一般庶民からも絶大な支持を集めた。叡尊(思円)の慈善精神は、弟子の忍性によって鎌倉の極楽寺などでさらに拡大・継承されていくこととなる。
西大寺の再興と教団の形成
叡尊(思円)は荒廃していた西大寺を、真言密教と戒律を併せ持つ「真言律宗」の本山として再建した。彼は建築や仏像制作にも情熱を注ぎ、有名な「木造釈迦如来立像(清凉寺式釈迦像)」などを安置した。叡尊(思円)の厳格な生活態度は、全国から多くの求道者を引き寄せ、西大寺流と呼ばれる巨大な教団へと発展した。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 拠点 | 南都 西大寺 |
| 主要な教理 | 戒密一致(戒律と密教の融合) |
| 代表的な弟子 | 忍性、信空、頼恩など |
| 諡号 | 興正菩薩(後伏見天皇より下賜) |
晩年と興正菩薩としての遺徳
正応3年(1290年)、叡尊(思円)は90歳の天寿を全うし、西大寺にて入滅した。彼が残した自伝『感身学正記(かんしんがくしょうき)』には、その波乱に満ちた生涯と、仏道への揺るぎない情熱が詳細に記されている。叡尊(思円)は死後、朝廷から「興正菩薩」の称号を贈られたが、これは僧侶に対して贈られる最高級の栄誉であった。彼の死後も、その精神は真言律宗の寺院ネットワークを通じて全国に広がり、日本仏教における社会倫理の確立に大きく貢献し続けたのである。