卜部兼方|釈日本紀を著した鎌倉中期の神道家

卜部兼方

卜部兼方(うらべのかねかた)は、鎌倉時代中期の神道家であり、古典学者である。対馬の卜部氏の流れを汲む京都平野神社の神職の家系に生まれ、日本最古の正史である『日本書紀』の体系的な注釈書として名高い『釈日本紀』を著したことで知られる。卜部兼方の事績は、それまで秘伝的・断片的に伝承されてきた記紀解釈を組織化し、後世の国学や神道説の発展に多大な影響を与えた点において、日本思想史上きわめて重要な位置を占めている。

出自と経歴

卜部兼方は、鎌倉時代後期の弘安年間(1278年〜1288年)前後に活躍した人物である。通称を紀伊守、号を懐賢と称した。父は同じく神道家であり、『日本書紀』の講義を行った卜部兼延であり、卜部兼方はその学問を継承し、さらに発展させた。卜部氏は古来、亀卜(亀甲を焼いて吉凶を占う儀式)を司る氏族であり、平安時代以降は吉田家や平野家として神道界で指導的な役割を果たすようになった。卜部兼方自身も神祇官の次官である神祇大輔を歴任したと伝えられており、朝廷における学問的地位を確立していたことが窺える。彼の学問的背景には、家学としての占術や神道儀礼に加え、当時の教養であった儒教や仏教の知識も深く組み込まれていた。

『釈日本紀』の編纂

卜部兼方の最大の業績は、文永から弘安年間にわたって編纂された全28巻に及ぶ『釈日本紀』である。この著作は、父・兼延が行った『日本書紀』の講書(注釈講義)の内容を基盤とし、さらに古今東西の諸説を引用・整理して集大成したものである。当時、神職の間では家伝の説を重んじる傾向が強かったが、卜部兼方は客観的な文献学的手法を取り入れ、多くの資料を比較検討した。これにより、『釈日本紀』は単なる一家の説を超え、当時の知の総体系としての性格を持つに至った。卜部兼方によるこの編纂作業は、中世における古典研究の頂点の一つと評価されている。

『釈日本紀』の構成と特色

『釈日本紀』は、その記述の組織性において従来の注釈書と一線を画している。卜部兼方は本書を以下の7つの項目(部類)に分けて整理した。

  • 解題:『日本書紀』の成立背景や書名の意義についての総論。
  • 図録:系図や図解を用いた視覚的な解説。
  • 譜第:天皇や皇族の系譜に関する詳細な記述。
  • 嘉名:地名や人名などの固有名詞の由来と解説。
  • 公事:年中行事や儀式、制度に関する注釈。
  • 別説:本文とは異なる伝承や異説の集成。
  • 音訓:難解な語句の読みや意味の規定。

卜部兼方は、この分類を通じて『日本書紀』の重層的な理解を試みた。特に「別説」の項では、現在は失われてしまった『風土記』の一文や、古い私記類を引用しており、文献学上の貴重な史料を保存する役割も果たしている。卜部兼方の徹底した資料引用の姿勢は、実証的な古典研究の先駆けともいえる。また、『古事記』や『万葉集』からの引用も多く、日本文学研究においても不可欠な文献となっている。

学問的立場と神道説

卜部兼方の学問は、理性的かつ実証的でありながら、根底には卜部家伝来の神道思想が流れている。彼は、日本固有の神道こそが国家の根源であると考えつつも、その理論化のために外来思想である儒教の倫理観を巧みに援用した。卜部兼方によるこの統合的なアプローチは、後の吉田兼俱による「唯一神道」の形成を準備する土壌となった。彼は単に文字を追うだけでなく、神話に込められた精神性や秩序を明らかにしようと試みた。卜部兼方にとっての古典研究は、祖先の神徳を顕彰し、国家の安寧を祈念するための神聖な行為であったといえる。

歴史的意義と評価

卜部兼方が残した業績の意義は、後世の評価によってさらに高まった。江戸時代の国学者である本居宣長などは、『釈日本紀』に引かれた古記録を参照することで、古代日本語の解明や記紀の再構築を行った。卜部兼方がいなければ、失われていたであろう古代の伝承は枚挙にいとまがない。また、彼が確立した「部類分け」による注釈形式は、その後の百科事典的な書物のモデルとなった。卜部兼方は、中世という動乱の時代において、古代の記憶を次世代へと繋ぐ橋渡しをした偉大な知の巨人であった。彼の活動は、日本人が自らのアイデンティティを再確認しようとする際の、常に確かな指針であり続けている。

関連年表

年次(推定) 事績
文永年間 父・兼延が『日本書紀』の講義を開始。卜部兼方がその記録を整理し始める。
弘安・正応年間 『釈日本紀』の編纂が進められ、全28巻が概ね完成する。
鎌倉時代末期 卜部家の学問が「卜部神道(平野流)」として確立され、朝廷や武家に広まる。

卜部兼方の没年や正確な生誕年は不明な点が多いが、彼が残した膨大な記述からは、執念に近い学究心と深い神道愛が伝わってくる。卜部兼方は、まさに日本の古典学の父とも呼べる存在である。