加藤高明内閣(護憲三派)|普通選挙法制定と護憲政治の確立を推進

加藤高明内閣(護憲三派)

加藤高明内閣(護憲三派)は、1924年(大正13年)6月11日に成立し、1926年(大正15年)1月28日まで存続した日本の内閣である。第二次護憲運動の成功という国民的な盛り上がりを背景にして誕生したこの内閣は、憲政会、立憲政友会、革新倶楽部の三党連合によって構成されており、大正デモクラシーの政治的到達点とも位置づけられる政権である。国民の広範な支持と民主主義的な機運を背景に、長年の懸案であった普通選挙法を成立させるなど、日本の政党内閣時代を確固たるものにした画期的な政権であった。本記事では、内閣成立の背景からその主要な政策、そして崩壊に至るまでの過程を詳述する。

護憲三派の結成と第二次護憲運動の展開

1924年初頭、枢密院議長であった清浦奎吾が首相に任命され、貴族院を中心とする超然内閣を組織すると、政党や国民の間に強い反発が生まれた。政党政治を無視するこの動きに対抗するため、憲政会総裁の加藤高明、立憲政友会総裁の高橋是清、革新倶楽部の犬養毅らが中心となり、政党内閣の樹立と憲政の常道を守ることを目的とした第二次護憲運動を全国規模で展開した。新聞や知識人もこれを強く支持し、国民的な運動へと発展していったのである。同年5月に実施された第15回衆議院議員総選挙において、護憲三派は合計280議席を超える圧倒的な勝利を収めた。この選挙結果を受けて清浦内閣は総辞職を余儀なくされ、衆議院の第一党となった憲政会の加藤高明に大命が降下した。こうして、三党の党首が揃って入閣する強力な連立政権である加藤高明内閣(護憲三派)が誕生したのである。

普通選挙法の制定と大正デモクラシーの結実

加藤高明内閣(護憲三派)における内政上の最大の功績は、1925年(大正14年)に成立した普通選挙法である。明治期以降、選挙権は一定の税金を納める者のみに限定されていたが、大正デモクラシーのうねりの中で普通選挙を求める声が急速に高まっていた。この法律により、納税資格の制限が完全に撤廃され、満25歳以上のすべての男子に選挙権が与えられることとなった。

  • 有権者数の激増:普通選挙法の成立により、有権者数は従来の約300万人から約1200万人へと一挙に4倍に増加した。
  • 労働者層の政治参加:無産政党が結成される土壌が作られ、多様な階層の声が国政に反映される道が開かれた。
  • 普通選挙の限界:女性への参政権付与は見送られ、男女同権の実現は戦後まで持ち越されることとなった。

治安維持法という「アメとムチ」

普通選挙法の成立によって政治参加の門戸が広げられた一方で、政府は共産主義や無政府主義といった過激な社会思想の拡大に対して強い危機感を抱いていた。そこで普通選挙法とほぼ同時期の1925年(大正14年)、国家体制の変革(国体の変革)や私有財産制度の否認を目的とする結社を厳しく取り締まる治安維持法を制定したのである。この治安維持法は、普通選挙法とセットで「アメとムチ」の政策と評されることが多い。当初の適用範囲は限定的であったものの、その後の昭和期に入ると拡大解釈され、国民の自由な思想や言論を弾圧するための強力な道具へと変貌していくこととなる。このように、加藤高明内閣(護憲三派)の政策は、民主化の推進という光の側面と、思想統制への道を開いたという影の側面の両方を併せ持っている。

宇垣軍縮と協調的な幣原外交の展開

外交および軍事面においても、加藤高明内閣(護憲三派)は大きな転換をもたらした。陸軍大臣に就任した宇垣一成は、第一次世界大戦後の軍事技術の近代化と国家財政の建て直しを図るため、思い切った軍備縮小を断行した。これが世に言う「宇垣軍縮」であり、陸軍の4個師団(約3万4千人)が削減された。削減で浮いた予算は、戦車や航空隊の創設といった軍の近代化に充てられた。一方、外務大臣の幣原喜重郎は、国際社会との協調を重んじる「幣原外交」を強力に推し進めた。ワシントン体制を遵守し、中国に対しては内政不干渉と経済的権益の擁護を基本方針とした。また、1925年には日ソ基本条約を締結してソビエト連邦との国交を樹立するなど、欧米列強との摩擦を避けつつ、日本の国際的な地位を安定させるための現実的かつ穏健な外交政策を展開した。

護憲三派の崩壊と加藤内閣の終焉

多くの歴史的実績を残した加藤高明内閣(護憲三派)であったが、政策方針の違いや党利党略から、次第に三派間の足並みに乱れが生じていった。特に、貴族院改革の方向性や税制改革(地租増税など)を巡って、都市の商工業者を支持基盤とする憲政会と、地方の地主層を支持基盤とする立憲政友会との対立が激化した。さらに、政友会内部の分裂騒動なども重なり、1925年(大正14年)8月には政友会と革新倶楽部の閣僚が辞任し、護憲三派の連立政権は崩壊した。

連立崩壊後、加藤高明は単独で憲政会内閣を組織して政権を維持した。しかし、長年の政治活動による疲労もあり、翌1926年(大正15年)1月の帝国議会会期中に加藤は肺炎をこじらせて急死してしまう。加藤の死後は、内務大臣であった若槻礼次郎が首相を引き継いだ。加藤高明内閣(護憲三派)は、原敬内閣以来の本格的な政党内閣として、大正期の政治史において極めて重要な役割を果たした。また、この内閣の成立から1932年の犬養毅暗殺(五・一五事件)まで続く「憲政の常道」と呼ばれる二大政党制の黄金時代を切り開いた点において、近代日本政治史における一つの頂点として高く評価されている。そしてその思想的源流は、尾崎行雄らが主導した第一次護憲運動から脈々と受け継がれたものであった。昭和期に入り、軍部が台頭し政党政治が危機に瀕するようになると、本内閣が築き上げたデモクラシーの遺産はより一層その歴史的価値を再評価されることとなる。日本の近代政治史において、民意を背景にした議会政治の実現可能性を最も強く示した政権として、その名は深く刻まれている。

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