一国平均役(室町)
一国平均役(室町)とは、日本の中世、特に室町時代において、令制国という行政単位を基準として荘園や公領の区別なく一律に課せられた臨時的な公事や租税の総称である。この制度は、鎌倉時代に神社仏閣の造営や異国警固などの国家的行事のために発生したが、室町時代に入ると室町幕府の権威維持や守護の軍事的・経済的基盤を支えるための恒常的な財源へと変質した。荘園領主の不入の権を排して、一国のあらゆる土地に課税するこの仕組みは、中世の土地支配体系である荘園公領制を実質的に解体し、後の戦国大名による一円支配や近世の石高制へと繋がる重要な過渡期的役割を果たした。本稿では、室町期における一国平均役(室町)の構造、具体的な税目である段銭や棟別銭の展開、そして守護領国制との関わりについて詳述する。
一国平均役の歴史的背景と室町幕府の統治原理
**一国平均役(室町)**が成立した背景には、南北朝の動乱による社会秩序の激変と、それに伴う新たな統治原理の必要性があった。鎌倉時代まで、租税は原則として荘園単位あるいは公領単位で徴収されていたが、元寇という国家存亡の機に際し、幕府は「一国平均」という名目で全国的な動員と課税を強行した。室町時代になると、足利尊氏やその後の将軍たちは、内乱の鎮圧や幕府の儀礼的権威を誇示するための多大な費用を捻出するため、この臨時的な賦課を定例化させたのである。これは、プラトンが理想としたような、構成員全体が国家という有機体の維持のために奉仕するという抽象的な正義感に基づいたものではなく、武力による実効支配と経済的収奪の正当化という極めて現実的な要請に基づいていた。幕府は、自らの直轄領だけでなく、敵対勢力や寺社の保有する広大な荘園に対しても「平均(平等)」という論理を適用することで、一国内の全ての経済主体を自らの支配下に組み込もうとした。この過程で、かつての貴族的な土地支配秩序は、武士による実力支配の論理へと置き換えられていったのである。この社会の変革期においては、ソクラテスが問いかけたような「法と正義のあり方」が、既存の特権階級と新興の武士階級の間で激しく衝突したといえる。
賦課の具体的形式:段銭と棟別銭の普及
室町期における**一国平均役(室町)**の主要な構成要素は、田畑の面積に応じて課される段銭(たんせん)と、家屋の棟数に応じて課される棟別銭(むねべつせん)であった。段銭は、もともと即位礼や大嘗祭などの臨時行事のために徴収されていたが、室町時代中期以降、幕府や守護の恒常的な財政需要を満たすための最も一般的な税目となった。一方、棟別銭は、都市の発達や家屋の密集化といった社会構造の変化を反映し、土地だけでなく「住居」そのものを課税対象とした革新的な制度であった。これらの税は、デカルト的な視点で見れば、複雑に入り組んだ荘園の権利関係を一掃し、土地や家屋という物理的な実体を数値化して把握しようとする「合理化」の試みとも解釈できる。実際に、守護たちは国内の土地を正確に把握するために「内検(ないけん)」と呼ばれる検地を行い、課税の基準となる反別を確定させていった。これにより、それまで荘園領主に隠匿されていた余剰生産物が、**一国平均役(室町)**という名目を通じて武士の手に渡るようになった。このような税制の浸透は、中世日本の経済システムが、単なる現物納付の段階から、貨幣経済と密接に結びついた広域的な収取システムへと進化していたことを物語っている。段銭の徴収は、時に過酷を極め、農民による徳政一揆の原因ともなったが、国家としての収取機能を強化する上で不可欠な段階であった。
守護領国制の成立と一国平均役の機能
**一国平均役(室町)**の実施において、最も重要な役割を果たしたのは守護(しゅご)である。本来、一国平均役の賦課権は幕府に帰属していたが、実際の徴収業務は守護に委ねられた。守護は幕府からの督促を背景に、国内の荘園領主や地頭、国人に対して強力な徴収権を行使し、その過程で「守護請(しゅごうけ)」などの形態を通じて国内の土地支配を一本化していった。この現象は、ヘーゲルが説いた歴史の弁証法的発展のように、地方分権的な荘園制が守護という中間権力を媒介として、一つの「領国」というまとまりへと統合されていく過程を示している。守護は徴収した税のうち、幕府へ納入する分を差し引いた余剰を自らの軍事費や家臣団の維持費に充て、領国内での絶対的な地位を確立した。これにより、かつては単なる軍事警察官であった守護が、一国を経済的・行政的に統治する「守護大名」へと変貌を遂げたのである。守護にとって、**一国平均役(室町)**は領国支配の正当性を担保する最大の武器であり、これを拒否する荘園領主を「公儀への反逆」として弾圧することで、守護領国制と呼ばれる強固な支配体系を構築した。しかし、この制度は同時に守護と国人層の対立を深め、後の下剋上の土壌を形成することにもなった。
荘園領主の抵抗と社会的摩擦
**一国平均役(室町)**の導入と拡大は、既存の荘園領主(公家や大寺社)との間に激しい摩擦を引き起こした。荘園領主たちは、不入の権や古来の特権を楯に、段銭や棟別銭の賦課を「不当な収奪」として拒絶した。彼らはしばしば幕府に訴え出て賦課の免除を求めたが、軍事的必要性を優先する幕府や実力行使を辞さない守護の前で、その訴えは次第に無力化していった。この対立構図は、カントが論じたような個別の権利(私法的権利)と公共の要請(公法的義務)の矛盾として捉えることもできる。荘園領主は自らの経済的存立をかけて抵抗したが、守護が派遣する「段銭使(たんせんし)」による強制的な徴収は、中世的な法秩序を根底から揺るがした。また、農民にとっても**一国平均役(室町)**は二重、三重の負担となり、彼らは村落共同体を形成して組織的な抵抗を試みた。中世後期の社会は、こうした課税を巡る権力者間の闘争と、被支配層による生存をかけた闘いが交錯する、極めて緊張感の高い空間であった。しかし、このような摩擦を通じてこそ、社会はより組織化された徴収体制と、明確な公権力の所在を確立していくことになったのである。領主の個人的な権威よりも、制度化された賦課の論理が優先される社会への転換点であった。
戦国時代への継承と中世税制の終焉
室町幕府の衰退とともに、**一国平均役(室町)**という名目は形骸化していったが、その実質的な機能は戦国大名へと引き継がれた。戦国大名は、幕府の権威に頼ることなく、自らの実力によって領国内に独自の税制を確立したが、その基礎となったのは室町期の段銭や棟別銭の経験であった。彼らは「一国」という枠組みをさらに強化し、領民に対してより組織的かつ徹底的な賦課を行った。この移行期における権力のあり方は、ニーチェが描いた「力への意志」が既存の価値体系を破壊し、新たな強者の秩序を創造する姿に近い。さらに、近世の太閤検地によって土地の生産性が「石高」として一元化されると、中世的な**一国平均役(室町)**の複雑な体系は完全に終焉を迎えた。しかし、この制度が目指した「一国内の土地を一律に把握し課税する」という志向性は、日本の近世国家の骨格を形成する上で不可欠な前提条件であったといえる。個人の自由が制限され、全体構造の中に組み込まれていくこの歴史的プロセスは、サルトルのいう「実存」が社会的な制約の中でどのように自己を規定していくかという問いにも通じる重い課題を、当時の人々に突きつけていた。室町期の税制は、単なる経済的事象に留まらず、日本社会が中世から近世へと脱皮するための産みの苦しみそのものであった。
一国平均役がもたらした社会構造の変容
最後に、**一国平均役(室町)**が中世社会に与えた長期的な影響を考察すると、それは単なる財政制度を超えた「公儀(こうぎ)」概念の変容であったことがわかる。特定の領主に帰属する「私的な」収取から、国全体の維持を目的とする「公的な」収取への転換は、日本における国家意識の萌芽ともいえる。この転換は、アリストテレスが論じた「ポリス(共同体)」の維持のための市民の役割という古典的な政治理論を、中世日本の武家社会が独自の形で再構成した結果とも見なし得る。室町時代の激動の中で、人々は重い税負担に苦しみながらも、一国という広域的な枠組みの中で自らの位置を確認し、新たな社会秩序の形成に加担していくことになった。**一国平均役(室町)**という言葉の裏には、戦乱に明け暮れた武士たちの野心と、それに応えざるを得なかった民衆の忍耐、そしてそれらを一つの国家システムへと統合しようとした歴史の巨大な意志が刻まれているのである。この制度の成立と崩壊の軌跡をたどることは、日本が近代へと至る過程で経験した「公」と「私」のせめぎ合いを理解するための重要な手がかりとなる。