ヴィッテ
セルゲイ・ユリエヴィチ・ヴィッテ(1849年 – 1915年)は、帝政末期のロシア帝国において、財務大臣や初代大臣会議議長(首相)を歴任した政治家である。ヴィッテは、後進的な農村国家であったロシアの近代化を強力に推進し、外資導入や保護貿易、通貨改革を通じて急速な産業革命を成し遂げた。また、外交面では極東進出の旗振り役を担う一方で、日露戦争後の和平交渉においては全権代表としてポーツマス条約を締結し、敗戦による打撃を最小限に抑える外交手腕を発揮した。1905年の第一次ロシア革命に際しては、皇帝ニコライ2世に対して立憲制の導入を説得し、十月宣言の起草を主導するなど、激動の時代に国家の舵取りを担った人物である。
官僚としての台頭と鉄道政策
ヴィッテは、当初オデッサ鉄道局の職員としてキャリアをスタートさせ、その卓越した実務能力と鉄道経営に関する専門知識を高く評価された。1888年に発生した皇帝専用列車の脱線事故において、事前に速度の出し過ぎを警告していたヴィッテはアレクサンドル3世の知遇を得ることとなり、中央政界へと抜擢された。1892年には運輸大臣、次いで財務大臣に就任したヴィッテは、ロシアの広大な領土を結びつけるためのインフラ整備こそが近代化の鍵であると確信し、シベリア鉄道の建設を強力に推進した。ヴィッテは、鉄道が単なる輸送手段ではなく、重工業を刺激し、国内市場を統一し、さらにはアジアへの政治的影響力を拡大するための戦略的ツールであると考えていたのである。
ヴィッテ・システムと経済改革
財務大臣としてのヴィッテが構築した一連の経済政策は「ヴィッテ・システム」と呼ばれる。これは、フランスなどの外国資本を積極的に導入し、その資金を基盤として鉄道建設や重工業化を加速させるものであった。1897年には金本位制を導入してルーブルの安定を図り、国際的な信用を高めることでさらなる投資を呼び込んだ。また、強力な保護貿易政策を採用して国内産業を育成し、酒類専売制を導入することで政府の歳入を大幅に増加させた。ヴィッテの指導下でロシアの工業生産額は飛躍的に伸長し、短期間で世界の主要工業国の一角に食い込むことに成功したのである。
極東政策と日露の対立
ヴィッテは、ロシアの経済的関心を極東に向けるべきだと主張し、清国との間に露清密約を締結して東清鉄道の敷設権を獲得した。しかし、彼の構想は武力による領土拡張ではなく、あくまで「経済的な浸透」を優先するものであった。それゆえ、ベゾブラーゾフらを中心とする「ベゾブラーゾフの徒党」が朝鮮半島への軍事的な野心を露わにすると、ヴィッテは慎重な姿勢を示し、彼らと対立することとなった。最終的に、強硬派の台頭と皇帝の不信を招いたヴィッテは1903年に財務大臣を解任されるが、その直後に勃発した日露戦争の結果、彼の懸念は現実のものとなった。
ポーツマス条約と戦後処理
敗色が濃厚となったロシア政府は、外交的危機を乗り切るために再びヴィッテの能力を必要とした。1905年、彼は全権代表としてアメリカのポーツマスへ派遣され、日本の全権小村寿太郎と対峙した。ヴィッテは「ロシアは敗者ではない」という強気な態度を貫き、巧みなメディア戦略によってアメリカ世論を味方につけることで、日本側が要求していた賠償金の支払いを拒否することに成功した。領土割譲も南樺太のみに留めるなど、実質的な「外交的勝利」を収めたと評されることもある。しかし、この成果も国内の不満を完全に鎮めるには至らず、ヴィッテは帰国後、深刻な国内問題に直面することとなる。
十月宣言と政治の混迷
日露戦争の敗北と血の日曜日事件を契機に拡大した第一次ロシア革命を収束させるため、ヴィッテは皇帝に対し、国民に自由権を与え、立法権を持つ国会(ドゥーマ)を開設することを提案した。これが1905年の「十月宣言」である。ヴィッテはこの功績により初代の大臣会議議長に任命され、実質的な首相として改革の指揮を執ることとなった。しかし、保守派からは「革命への譲歩」と批判され、革命派からは「不十分な改革」と攻撃される板挟みの状態に陥った。結局、憲法制定直前の1906年に罷免され、ヴィッテの政治的生涯は事実上の終焉を迎えた。
ヴィッテの業績と評価
ヴィッテの政治手法は、上からの近代化を徹底する権威主義的な側面を持っていた。一方で、彼はロシアが存続するためには改革が不可欠であることを誰よりも深く理解していた現実主義者でもあった。ヴィッテが構築した工業化の基盤は、その後のソビエト連邦時代の発展にも少なからぬ影響を与えたと言える。
主要職歴と功績
| 期間 | 主な役職 | 主な功績・出来事 |
|---|---|---|
| 1892年 – 1903年 | 財務大臣 | 金本位制の導入、シベリア鉄道の建設推進、酒類専売制の確立 |
| 1905年 | 全権代表 | ポーツマス条約の締結(日露戦争の講和) |
| 1905年 – 1906年 | 大臣会議議長 | 十月宣言の起草、ロシア帝国憲法の制定への関与 |
晩年と死
政界引退後のヴィッテは、回想録の執筆に専念し、当時の政治状況を鋭く批判し続けた。彼は第一次世界大戦への参戦に対しても、ロシアの崩壊を招くものとして強く反対していた。1915年に脳溢血で死去したが、皇帝からの弔辞はなく、葬儀も簡素なものであった。ヴィッテが懸念した通り、彼の死から2年後、ロシア帝国はロシア革命によって崩壊の時を迎えることとなる。