ローザ=ルクセンブルク
ローザ=ルクセンブルクは、20世紀初頭のドイツおよびヨーロッパ社会主義運動を代表する革命家・理論家である。ポーランド出身のユダヤ人として生まれ、国境を越えて活動し、ドイツ社会民主党やスパルタクス団を通じて革命運動を指導した。彼女は議会主義的な社会民主主義を批判し、民衆の自発的行動と大衆ストライキを重視する思想を展開した。また、帝国主義と戦争に一貫して反対し、第一次世界大戦期には反戦運動の中心人物となったが、ドイツ革命の過程で1919年に右翼勢力によって殺害された。
出自と青年期
ローザ=ルクセンブルクは1871年、ロシア帝国支配下のポーランドに生まれた。幼少期から政治的・社会的抑圧を経験し、学生時代には秘密結社的な社会主義運動に参加した。政治活動への関与によりポーランドに居づらくなった彼女はスイスへ亡命し、チューリヒ大学で哲学・経済学・法学を学び、理論家としての素地を固めた。この時期に彼女は国際的な社会主義運動の人脈を築き、後のドイツでの活動の足場をつくっていった。
ドイツ社会民主党での活動
19世紀末、ローザ=ルクセンブルクはドイツに移り、当時最大の労働者政党であった社会民主党(SPD)に参加した。彼女は鋭い理論と論争的なスタイルで知られ、党内右派の漸進主義・改良主義を批判した。特にベルンシュタインの修正主義に対して、資本主義は自壊的危機を内包し、革命的変革なしには克服できないと論じた。こうした立場から、彼女は議会での妥協に傾く党指導部に対し、階級闘争の原則への回帰を強く訴えた。
理論家としての業績
ローザ=ルクセンブルクは理論家としても高く評価され、資本主義分析や帝国主義論で独自の貢献を行った。彼女の著作はマルクス主義の枠組みを継承しつつ、資本主義の拡大と植民地支配の関係を鋭く描き出した。また、革命の手段として大衆ストライキを重視したことも大きな特徴である。
- 『資本蓄積論』では、資本主義が非資本主義的領域を外部に求めて膨張する構造を論じた。
- 大衆ストライキ論では、労働者の自発的行動が革命を準備すると主張し、官僚化した党や労働組合を批判した。
- 民主主義と社会主義の関係について、自由と民主主義のない社会主義は成り立たないと強調した。
戦争反対とスパルタクス団
1914年に第一次世界大戦が勃発すると、SPD指導部は戦時協力に踏み切り、戦費に賛成票を投じた。これに対し、ローザ=ルクセンブルクは国際主義の立場から徹底的に反対し、戦争反対派の少数派グループとともに活動した。彼女はカール・リープクネヒトらとともに秘密裏に反戦宣伝を行い、やがてスパルタクス団と呼ばれる革命的グループを形成した。この活動により彼女は度々投獄されるが、獄中からも戦争と帝国主義を批判する文章を発表し続け、ドイツ国内外の反戦運動に大きな影響を与えた。
ドイツ革命とドイツ共産党
1918年、キール軍港の水兵反乱を発端にドイツ革命が開始されると、戦争に疲弊した兵士・労働者は各地で評議会を組織し、旧体制を揺るがした。釈放されたローザ=ルクセンブルクは革命のただ中に身を投じ、スパルタクス団の指導者として評議会権力の樹立を主張した。1918年末にはスパルタクス団を中心にドイツ共産党(KPD)が結成され、彼女はその理論的指導者となったが、急進的路線は他勢力との対立を深めることになった。
暗殺と歴史的評価
1919年1月、革命の進路をめぐる混乱の中で武装蜂起が起こると、政府側は右派フライコールを動員してこれを弾圧し、その過程でローザ=ルクセンブルクとリープクネヒトは捕らえられ、暴行の末に暗殺された。彼女の死は革命の敗北を象徴する事件となったが、その思想は後のロシア革命批判や、官僚的社会主義への反省の文脈で再評価されている。特に、帝国主義批判や、民主主義と社会主義の不可分性を強調する姿勢は、20世紀後半以降の社会運動や理論的議論の中で重要な参照点となっている。また、彼女が強調した民衆の自発性への信頼は、権威主義的な党や国家に対する批判と結びつき、今日でも革命論・民主主義論の文脈で読み継がれている。