ルイ16世処刑|革命が王権を終わらせた日

ルイ16世処刑

ルイ16世処刑」は、1793年1月21日にパリの革命広場(現在のコンコルド広場)でフランス国王ルイ16世がギロチンによって処刑された事件である。フランス革命の頂点の一つであり、王権神授説に基づく王政が否定され、国民主権の理念が象徴的に示された出来事として位置づけられる。本項ではその背景、裁判の過程、当日の経過、そして国内外に与えた影響を概観する。

背景:王政廃止と第一共和政の成立

1789年の三部会招集とバスティーユ襲撃によって始まったフランス革命の中で、ルイ16世は立憲王政の下で権限を制限されたが、ヴァレンヌ逃亡事件や改革への消極姿勢から不信を深めていった。1792年には対外戦争が激化し、8月10日のテュイルリー宮襲撃によって王権は事実上崩壊した。その後、立法議会に代わって召集された国民公会は1792年9月に王政廃止と第一共和政の成立を宣言し、前国王の法的処遇が革命政権の最大の政治問題となった。

国民公会における裁判

国民公会は、特別裁判所ではなく国民代表機関自らが前国王を裁くべきだと考え、議場をそのまま法廷とした。ルイ16世は「ルイ・カペー市民」と呼ばれ、対外敵との通謀、国民の自由への攻撃、武力による革命鎮圧の企図など、多数の罪状で訴追された。穏健派のジロンド派は国民投票の実施や刑の猶予を主張したが、急進派の山岳派やジャコバン派は共和国防衛のためには即時の死刑が不可欠であると訴えた。長時間に及ぶ激しい討論と名指し投票の結果、執行猶予なしの死刑が僅差で可決され、ルイ16世処刑が正式に決定した。

処刑当日の経過

1793年1月21日の早朝、ルイ16世はタンプル塔から連行され、厳重な護衛の下でパリ市中を馬車で通って革命広場に向かった。彼は神父の立ち会いのもとで最後の告解を行い、断頭台の上から国民に向けて自らの無実と和解を訴えようとしたが、太鼓の連打がその声をかき消したと伝えられる。ギロチンの刃が落ちると、立ち会った兵士や群衆の間から歓声が上がり、一部はその血を革命の象徴として帽子や衣服につけたと記録される。

  • 処刑日時:1793年1月21日午前
  • 処刑場所:パリ革命広場(現コンコルド広場)
  • 処刑方法:ギロチンによる斬首刑

国内政治と国際関係への影響

前国王の処刑は、ヨーロッパの君主制諸国に深刻な衝撃を与えた。すでに対仏干渉に動いていた列強は、革命政権への敵意を強めて第1次対仏大同盟を結成し、フランス革命戦争は長期化・激化した。一方、国内では王党派や保守的な農民層の反発が強まり、内戦や反乱の危険が高まったため、革命政権は非常委員会や公安委員会を強化し、治安維持の名の下に反革命容疑者への弾圧を拡大した。こうしてルイ16世処刑は、後に恐怖政治と呼ばれる非常体制への重要な転換点となった。

歴史的評価

後世の歴史家の間では、ルイ16世処刑が共和国防衛のために不可避であったのか、それとも外交的孤立と内乱を深めた政治的誤算であったのかについて評価が分かれている。専制体制の象徴であった王を法廷手続きによって裁いた点は、主権の所在を「国王」から「国民」へ移行させる象徴的瞬間とみなされる一方、処刑は復讐と恐怖の連鎖を生み、王妃マリー・アントワネットを含む多くの犠牲者を生む契機ともなった。ルイ16世処刑は、革命の理念と暴力、正義と報復の境界を問う事例として、現在に至るまで議論の対象であり続けている。