リヴィングストン
リヴィングストン(David Livingstone, 1813–1873)は、19世紀のスコットランド出身の医師・宣教師・探検家で、南部から中央アフリカ内陸部を踏査した人物である。彼はヨーロッパ人にとって未知であった内陸地の地理情報をもたらすとともに、東アフリカにおける奴隷貿易の実態を報告し、母国イギリスの世論を動かした。後の帝国主義的な進出と結び付く側面を持ちながらも、「人道的探検家」として記憶されてきた代表的存在である。
生い立ちと宣教師としての召命
リヴィングストンはスコットランドの工業都市に労働者の子として生まれ、少年期から紡績工場で働きながら独学で学問を修めた。やがてロンドン伝道協会の援助を受けて医学と神学を学び、医師資格を得たうえで宣教師として海外に派遣される道を選ぶ。産業化が進むイギリス社会のなかで、彼はキリスト教的改革と海外宣教を結び付けて構想し、自身の人生を「文明と福音を遠地に運ぶ」使命に捧げようと考えた。
アフリカ内陸部への探検と地理的成果
リヴィングストンは1840年代以降、南部アフリカの先住民社会に入り、宣教とともに広範な調査・探検を行った。彼は内陸部の河川や湖沼、山脈の位置を測量し、ザンベジ川流域をたどって有名な滝に到達し、それにヴィクトリアの名を与えた。こうした活動は、近世の大航海時代以来続く地理上の探検を19世紀的に発展させたものと位置づけられ、多数の地図と報告書を通じてヨーロッパの地理学・植民地行政に大きな資料を提供した。
奴隷貿易批判と人道主義的イメージ
リヴィングストンが特に強調したのは、東アフリカ沿岸や内陸部で続いていた奴隷狩りと奴隷貿易の実態であった。彼は行軍の途中で目撃した虐殺や行列の惨状を日記に記し、帰国後の講演や著作でその悲惨さを広く訴えた。これらの報告は、既に大西洋奴隷貿易を廃止していたイギリス社会に、新たな道徳的義務として東アフリカの奴隷制廃止を求める世論を喚起し、彼自身も「人道的探検家」「奴隷制の告発者」として称揚される要因となった。
「文明・キリスト教・通商」と帝国主義
リヴィングストンは、奴隷制に代わるものとして「文明・キリスト教・通商」の導入を唱えた。彼は宣教とともに正当な商業や道路・河川交通を整備することで、現地社会を変革しつつ奴隷制を衰退させうると考えた。この構想は、その後の帝国主義期において、アフリカ支配を正当化する論理と結び付けられ、彼の名と理想はしばしば植民地政策の象徴として用いられた。すなわち、彼の人道主義的レトリックは、結果としてヨーロッパの植民地進出を倫理的に装う装置としても機能したのである。
行方不明と「発見」の物語
晩年のリヴィングストンは、ナイル川水源探究など困難な探検を続ける中で消息を絶ち、その所在はヨーロッパで大きな関心事となった。ジャーナリストによる探索行の末に彼が再び見いだされたというドラマは、「Dr. Livingstone, I presume?」という有名な言葉とともに、英雄的探検家像を演出した。実際には健康の悪化と孤立に苦しんでいた彼は、1873年に内陸アフリカの地で没し、その遺体は故国イギリスへ送還され、国民的英雄として葬られた。
歴史的評価とその後の研究
リヴィングストンは、19世紀ヴィクトリア朝社会における敬虔で勤勉な英雄像を体現すると同時に、地理学・民族誌・植民地史研究にとって重要な情報を残した。一方で、彼の活動はヨーロッパ中心の視点からアフリカ社会を捉え、近代的支配を正当化する言説と結び付いていた点で批判の対象ともなる。今日では、彼を純粋な「聖人」と見るのでも単純な「侵略の先駆者」とみなすのでもなく、19世紀の地理上の探検と宣教、そして帝国主義的拡大が交錯する歴史的文脈のなかで、多面的に位置付けようとする研究が進められている。