ユエ
ユエは、古代から中世にかけて中国南部から北部ベトナムに広がって居住した諸民族を指す名称であり、とくに漢籍では「越」「百越」として記録される。現在の浙江・福建・広東・広西・雲南からトンキン地方にかけての湿潤なモンスーン地域に暮らし、水稲農業や海上交易に長けた集団として知られる。春秋の越国や、秦漢以後に成立した南越国なども広い意味でのユエ世界に含まれ、のちに「越南(ベトナム)」という国名が生まれる背景となった概念である。
名称と語源
ユエに対応する漢字は主に「越」と「粵」であり、いずれも中国南方の民族・地域を示す地名・族名として用いられた。「百越」は「多くの越の民」という意味で、珠江流域から長江下流にかけて点在した諸集団の総称である。のちに「越」の字は、「越南」「南越」などの形でベトナムを指す語にも取り込まれ、南方世界を象徴する文字として長く用いられた。
地理的範囲と環境
ユエの居住域は、長江以南の湿潤な亜熱帯帯に広がる。現在の浙江・福建沿岸の丘陵地帯から、珠江デルタの低湿地、さらに紅河流域までがその範囲とされる。この地域は、モンスーン気候と豊かな河川によって水稲耕作が発達し、また海岸線や内水路が入り組んでいたため、早くから舟運・海運が発達した。こうした自然環境が、ユエの人々の生活様式や技術、宗教観を形づくったと考えられている。
春秋戦国期の越国
春秋時代になると、長江下流域には「越国」と呼ばれる有力な国家が登場し、呉との抗争を通じて歴史に名を残した。越王句践の故事は『史記』などに描かれ、「臥薪嘗胆」の語源として知られる。越国は春秋時代末には一時、江南の覇権を握るほどに勢力を拡大したが、その後戦国時代の大国間抗争のなかで圧迫され、やがて秦の統一過程に組み込まれていった。ここで形成された海浜の造船技術や水軍の伝統は、のちの南方ユエ世界にも受け継がれたとされる。
呉越抗争と越文化の特徴
越国と呉との対立は、江南の政治史であると同時に文化的対照でもあった。越の人々は水上生活に適応した住居や、南方特有の衣服・髪形をもち、刺青や歯を黒く染める風習をもっていたと記録される。これらは北方の中原文化とは異なる南方のアイデンティティを象徴しており、後世の百越諸族にも共通する要素である。
百越と南方世界
秦漢期の史書では、嶺南から紅河流域にかけて、多数の「越」集団が記録され、「西甌」「駱越」「南越」などの名称が見える。これらを総称して「百越」と呼び、統一帝国から見て周縁に位置する異民族世界として描写した。百越地域は、銅鼓文化や水稲農業、漁撈と焼畑を組み合わせた複合生業を特徴とし、北方とは異なる宗教儀礼や祖先崇拝の形態を発展させたと考えられている。
南越国と漢帝国
秦の南方征服後、その遺構を引き継ぐ形で成立した南越国は、現在の広東・広西から北部ベトナムにまたがる王国であり、典型的なユエ系国家とみなされる。やがて漢による征服と郡県制の導入を受け、漢文化とユエ文化が交錯する場となった。この過程で、南方の在地支配層は漢字文化・儒教・律令制度を受容しつつも、土着の習俗を保持し、複合的な文化構造を形成した。
ベトナム史との関係
のちに「越南(ベトナム)」と呼ばれる地域は、古くは「駱越」などのユエ系集団の居住地とされ、漢代には交趾・九真などの郡が置かれた。長期にわたる中国王朝による支配ののち、自立を達成したベトナム王朝は、自らを南方の「越」と位置づけ、中国との関係を表現するために国号に「越」の字を用いた時期がある。こうしてユエという名称は、中国南部から東南アジアに連なる広域世界を象徴する歴史的概念となった。
文化・社会とその継承
ユエ世界の文化は、稲作・水運・海運に依拠した生活様式、南方系の宗教儀礼、銅鼓や装身具に見られる独特の造形などによって特徴づけられる。漢帝国の拡大により多くのユエ集団は同化・漢化されていったが、刺青・歯の染色・舟に依拠した生活といった要素は、現在の華南や北部ベトナム、一部の東南アジア少数民族の文化にも痕跡をとどめている。こうした視点からユエを捉えると、古代の一民族名にとどまらず、華南からインドシナ半島に広がる南方世界の長期的な歴史ダイナミクスを理解するための鍵概念であるといえる。