プレハーノフ
プレハーノフは、19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍したロシアのマルクス主義者であり、「ロシア・マルクス主義の父」と呼ばれる人物である。彼は民粋主義運動から出発しつつ、ロシア社会の発展を資本主義経済の進展として捉え、革命運動の理論的基礎を築いた。とくに亡命先で結成したエマンシパツィア労働団を通じて、ロシアにマルクス主義文献を紹介し、のちにレーニンやボリシェヴィキにも大きな影響を与えたが、ロシア革命期にはレーニンと対立し、ボリシェヴィキ権力を批判する立場に立った理論家として知られる。
生い立ちと民粋主義からマルクス主義へ
プレハーノフは1856年、ロシア帝国の貴族的な地方地主の家に生まれた。若いころから専制体制下の政治や農民の貧困に関心を抱き、当時の革命運動であった民粋主義に参加した。民粋主義は農民共同体を基礎にした社会改革を志向する思想であり、同時代のロシア革命運動の主流であったが、プレハーノフは活動を通じて、農村への宣伝だけでは体制を根本的には変えられないと考えるようになる。やがて彼は西欧の社会主義運動、とくにマルクスとエンゲルスの理論に接し、ロシアでも資本主義が発展しつつあるという認識に到達して民粋主義と訣別し、マルクス主義へと傾斜していった。
エマンシパツィア労働団の結成と亡命活動
ロシア国内での弾圧を受けたプレハーノフは西欧に亡命し、1883年にジュネーヴでエマンシパツィア労働団を結成した。このグループはロシア最初の組織的マルクス主義団体とされ、ロシア語でマルクスの『資本論』やエンゲルスの著作を紹介し、理論的な解説を加えることで、祖国の革命家や労働者層にマルクス主義を広めた。活動は主として亡命地からの出版と秘密裏の文書送付という形をとり、のちのロシア社会民主労働党の形成に準備的な役割を果たした。エマンシパツィア労働団は国際的な社会主義運動にも関わり、ドイツ社会民主党など西欧の諸政党との接触を通じて、理論・組織論の影響を受けていった。
理論的貢献とマルクス主義解釈
プレハーノフの最大の貢献は、ロシアの現実に即してマルクス主義を解釈し直した点にある。彼はロシアでも資本主義的生産様式が拡大しており、農民共同体に依拠した「特別な道」は存在しないと主張した。そのため、社会主義革命はまず資本主義の発展とブルジョワ民主主義革命を経たのちに、労働者階級が主導する形で進行するという二段階論を提示したのである。また彼は、唯物史観と弁証法を哲学的に整理しようと試み、マルクス主義を体系的な世界観として捉え直した。このような理論作業は第2インターナショナルの時期の正統派マルクス主義と軌を一にしており、西欧社会民主主義の理論潮流と深く結びついていた。
ロシア社会発展論と農民問題
民粋主義との論争のなかで、プレハーノフはロシアの農民共同体を前近代的な残存物として位置づけ、それ自体が社会主義への直接的な橋渡しになるという考えを退けた。彼にとって重要なのは、都市工業と賃金労働者の増加という客観的な社会経済の変化であり、それを土台に労働者階級が組織されることであった。この見解は、のちのメンシェヴィキの基本的な歴史認識となり、ロシア革命の進路をめぐる議論に大きな影響を与えた。
哲学・美学への関心
プレハーノフは政治理論だけでなく、哲学や文学・芸術にも深い関心を寄せた。彼は弁証法的唯物論の立場から美学を論じ、芸術作品を社会的存在と人間の実践に結びつけて解釈しようとした。このような試みは、マルクス主義を狭い経済理論としてではなく、社会全体を説明する総合的な思想として提示するものであり、ロシア知識人への訴求力を高めた点で重要である。
レーニンとの関係と分裂
プレハーノフは若い頃のレーニンに強い影響を与えたとされる。レーニンが初期の著作で資本主義のロシアへの浸透を論じた際には、プレハーノフのロシア資本主義論を多く参照していた。しかし、1903年のロシア社会民主労働党の分裂に際して、彼は組織原則と党の性格をめぐりレーニンと対立し、穏健派であるメンシェヴィキ側に立った。レーニンが精鋭的な前衛党を主張したのに対し、プレハーノフは広範な大衆政党モデルを志向し、またブルジョワ民主主義革命の段階を重視したためである。この対立はやがて決定的なものとなり、レーニン率いるボリシェヴィキとプレハーノフの路線は政治的にも理論的にも遠く隔たっていった。
第一次世界大戦とロシア革命への態度
第一次世界大戦が勃発すると、プレハーノフはドイツ帝国に対抗する戦争をある程度正当化し、社会主義者による戦争支持の立場を取った。これは国際社会主義運動内部で大きな論争を呼び、多くの革命的マルクス主義者はこれを「社会愛国主義」として批判した。1917年の二月革命に対しては、彼は専制打倒という点で肯定的であったが、同年十月のボリシェヴィキによる武装蜂起には反対し、ソヴィエト政権を冒険的で未成熟な試みとみなした。こうした態度から、プレハーノフは新政権から距離を置き、その影響力は急速に低下したまま、1918年に没した。
歴史的意義と評価
プレハーノフはロシア革命史のなかではボリシェヴィキに対抗した敗れた理論家として扱われることが多いが、その意義は小さくない。彼はロシアにマルクス主義を導入し、体系的な理論として提示した最初期の人物であり、のちの第2インターナショナル時代の正統派理論をロシアに媒介した知識人であった。また、革命の段階論や大衆政党論をめぐる議論は、その後の社会民主主義運動やドイツ社会民主党などとも共通する問題意識を持っており、世界史的な比較の視点からも検討されている。ボリシェヴィキ勝利の結果、その路線は歴史の主流とはならなかったが、ロシア近代化と革命運動の多様な可能性を示した点で、プレハーノフの思想と活動は依然として重要な研究対象となっている。