ブール人|南アフリカの白人農民

ブール人

ブール人」は、南部アフリカにおいてオランダ系を中心とするヨーロッパ移民の子孫から形成された白人農民集団であり、のちにアフリカーンス語を話す「アフリカーナー」とも呼ばれる人々である。彼らはケープ植民地における前近代的な農民社会を築き、その自治と生活様式を守るために英国支配としばしば対立し、やがてトランスヴァール共和国やオレンジ自由国を建設した。19世紀末のボーア戦争は、アフリカ分割の文脈の中でブール人と大英帝国の対立が頂点に達した事件として知られる。

起源と民族的背景

ブール人の起源は、17世紀半ば以降にオランダ東インド会社がケープ植民地に入植させたオランダ人農民にさかのぼる。そこにフランスのユグノーやドイツ系移民が加わり、徐々に混成のヨーロッパ系共同体が形成された。彼らは現地のコイコイやバントゥー系住民との接触や衝突を繰り返しながら、ケープ内陸へと牧畜・農業を営む拡大を続けた。この過程で、オランダ語を基盤としつつ独自に発達したアフリカーンス語が日常語として定着し、宗教的にはカルヴァン派の厳格な信仰が共同体の精神的支柱となった。

ケープ植民地社会と英国支配

18世紀のケープ植民地では、ブール人農民が広大な土地を占有し、半遊牧的な牧畜と自給的な農業による分散的社会を営んでいた。彼らは奴隷制や強制労働に依存しつつ、植民地当局からかなりの自主性を保持していた。しかし19世紀初頭、ナポレオン戦争を契機としてケープはイギリス領となり、英政府は行政・司法・言語政策の面で統治の近代化を進める。奴隷制廃止や英語化は、伝統的秩序を重んじるブール人にとって大きな不満の源となり、彼らの自立志向を強めた。

グレート・トレック(大移動)

1830年代以降、英国支配とその改革に反発した一部のブール人農民は、ケープ植民地を離れて内陸へ移動する大規模な移住運動を開始した。これは「グレート・トレック(大移動)」として知られ、移住者たちは「フォールトレッカー」と呼ばれた。彼らはズールーなどアフリカ諸民族と武力衝突を繰り返しつつ、ナタールやオレンジ、トランスヴァール方面へと進出した。この動きは、ヨーロッパ列強がアフリカ各地へ勢力を広げるアフリカ探検や植民地化の一環として理解されることも多い。

ボーア共和国の形成

グレート・トレックの結果、ブール人は内陸にいくつかの共和国を樹立した。その代表がトランスヴァール共和国とオレンジ自由国であり、両者をあわせて「ボーア共和国」と総称する。これらの共和国では、カルヴァン派的価値観にもとづく共和制と議会制度が採用され、白人男性市民による自治が重視された。他方、現地アフリカ人住民は政治的権利から排除され、土地や労働の支配を通じて厳しい人種的秩序が形成されていった。このような体制は、のちの南アフリカ共和国におけるアパルトヘイトの先駆的性格を持つと評価されることもある。

金鉱・ダイヤモンドと帝国主義の圧力

19世紀後半、南アフリカではキンバリー周辺でのダイヤモンド発見、続いてトランスヴァールでの金鉱発見により、地域の戦略的・経済的重要性が急速に高まった。イギリス資本はこれら鉱山開発に積極的に関与し、セシル=ローズスタンリーらが象徴する帝国主義的進出が進んだ。こうした動きは、ボーア共和国の自治と資源支配を脅かし、ブール人と英帝国との緊張を激化させる要因となった。同時期にはベルリン会議を通じてアフリカ分割の国際ルールが整備され、南部アフリカも列強競争の最前線となっていった。

ボーア戦争と敗北

1899年に勃発した第二次ボーア戦争(南アフリカ戦争)は、ブール人のボーア共和国と大英帝国との全面対決であった。ゲリラ戦を得意とするボーア側は当初善戦したが、イギリス軍は焦土作戦や強制収容所の設置など苛烈な手段でこれに対抗した。戦争は1902年に終結し、ボーア共和国は英国の勝利によって併合される。この戦争は、アフリカにおける帝国主義と民族自決の衝突という観点から、イギリスのアフリカ縦断政策ローデシア支配とも密接に関連づけて論じられる。

南アフリカ連邦とアフリカーナー

ボーア戦争後、1910年にケープ植民地・ナタール植民地・トランスヴァール・オレンジ自由国が統合され、南アフリカ連邦が成立した。この新国家では、英語系住民とブール人(アフリカーナー)が政治的妥協のもとに協力しつつ、黒人多数派を排除した白人支配体制を築き上げた。20世紀に入ると、アフリカーナー民族主義が高まり、ナショナル・パーティを通じてアパルトヘイト政策が制度化されるに至る。こうしてブール人は、単なる移民農民集団から、南アフリカ国家を主導する政治的主体へと変貌を遂げた。

言語・宗教・文化

ブール人の文化的特徴として、アフリカーンス語、カルヴァン派プロテスタント、そして農民的価値観が挙げられる。アフリカーンス語はオランダ語を基盤としつつ、アフリカ土着語や英語、ドイツ語などの影響を受けて形成された言語であり、のちには南アフリカ共和国の公用語の一つとなった。宗教面では、旧約聖書の「選民」意識を強調する解釈が、ブール人が自らの歴史を「荒野を行く神の民」として理解する枠組みを提供したとされる。また、家庭的・農村的生活を重んじる文化は、都市化や鉱山労働の進展のなかで変容しつつも、アフリカーナー・アイデンティティの重要な要素であり続けた。

現代における位置づけ

20世紀後半、アパルトヘイト体制への内外の批判が高まり、南アフリカは民主化と人種平等に向けて大きく転換した。これにより、支配的地位を占めていたブール人は、新たな多民族国家の中で自らの言語・文化・宗教をどのように位置づけるかという課題に直面した。現在、アフリカーンス語を話す人々は、アフリカーナーだけでなく有色人種コミュニティにも広がっており、単純な人種的区分では捉えきれない多様な社会集団となっている。南部アフリカの歴史を理解するうえで、ベルギー領コンゴコンゴ自由国と同様、帝国主義と植民地支配の一典型としてブール人の歩みを検討することは、近代世界史の重要な課題である。