ブランデンブルク=プロイセン
ブランデンブルク=プロイセンは、ドイツ北東部のブランデンブルク選帝侯国とバルト海沿岸のプロイセン公国が、ホーエンツォレルン家の下で同君連合を形成した17世紀の政治的枠組みである。形式上は複数の領邦国家の集合体でありながら、近世後期に強力な軍事国家へと変貌するプロイセン国家形成の中核段階として位置づけられる。この体制は1618年の同君連合から始まり、1701年にプロイセン王国が成立するまで続いた。
成立の背景
ブランデンブルク=プロイセン成立の前提には、ホーエンツォレルン家による領土拡大があった。中世以来、同家は神聖ローマ帝国の有力諸侯としてブランデンブルク選帝侯国を支配し、選帝侯位を保持していた。一方、バルト海東岸のプロイセン公国は、かつてドイツ騎士団国家であった地域が世俗化して成立した公国であり、名目上はポーランド王に封建的な臣従義務を負っていた。1618年、このプロイセン公国のホーエンツォレルン家別系統が断絶したことにより、選帝侯家がこれを相続し、同一の君主が両領域を支配する体制が生まれたのである。
領域構成と統治構造
ブランデンブルク=プロイセンの特徴は、その領域が地理的に分断され、複数の歴史的地域から構成されていた点にある。エルベ川東方のブランデンブルク本国のほか、ライン地方のクレーヴェやマルクなど西方領土、そして帝国の外に位置するプロイセン公国が君主の共通支配下に置かれた。各領邦は固有の特権と身分制機構を維持しており、初期には統一的な中央集権国家とは言い難かったが、ホーエンツォレルン家はベルリンを中心に官僚制と常備軍を整備し、諸領邦を事実上統合する方向へと進んだ。
三十年戦争と大選帝侯
ブランデンブルク=プロイセンの転機は、17世紀前半の三十年戦争であった。ブランデンブルクは戦争初期に優柔不断な外交をとったため戦禍を大きく被り、人口・経済は深刻な打撃を受けた。しかし戦争後半に即位した「大選帝侯」フリードリヒ=ヴィルヘルムは、混乱の中で強力な常備軍を組織し、戦後処理において領土拡大を実現した。1648年のウェストファリア条約では東ポメラニアの一部や司教領を獲得し、帝国諸侯としての地位を強化したことから、同君連合体としてのブランデンブルク=プロイセンは軍事・外交面で存在感を増していった。
東方の新しい動きと社会構造
戦争と危機の時代にあたる17世紀の危機の中で、東エルベ以東の農村社会には「東方の新しい動き」と呼ばれる動向が進行した。すなわち、大地主であるユンカー貴族が農民を領主裁判権の下に強く拘束し、大規模な穀物輸出経営を展開する体制である。ブランデンブルク=プロイセンの支配層もまた、ユンカーと結びつき、農民の再隷属化を容認する代わりに、貴族が指揮する騎兵中心の軍隊への協力を取り付けた。このように、農村社会の支配強化と引き換えに強力な軍事国家が形成されていく構図は、のちのプロイセン国家の性格を規定する要素となった。
国際政治とプロイセン王国への発展
ブランデンブルク=プロイセンは、フランスやハプスブルク家オーストリアなど大国が鎬を削るヨーロッパ国際政治の中で、巧みな同盟転換によって地位を高めていった。大選帝侯とその後継者たちは、対スウェーデン戦争や北方戦争に参加し、ポーランド王に対しては、1657年の条約などを通じてプロイセン公国に対する宗主権の放棄を認めさせた。これによりプロイセンは名実ともに主権国家となり、やがて1701年、選帝侯フリードリヒ3世はケーニヒスベルクで自らを「プロイセン王」として戴冠し、プロイセン王国が成立する。こうして同君連合体としてのブランデンブルク=プロイセンは姿を消すが、その過程で形成された強力な官僚制と軍事体制は、のちにドイツ統一を主導するプロイセン国家の基盤となった。