東方の新しい動き
東方の新しい動きとは、主に近世ヨーロッパ史において、西欧での三十年戦争とウェストファリア条約によって国際秩序が再編されたのち、東ヨーロッパやロシア、オスマン帝国周辺で進行した政治・軍事・社会の変化を総称する表現である。西欧では主権国家体制が整い、フランスやイギリスが台頭する一方、東方ではオスマン帝国の勢力伸長と後退、ロシア帝国の成長、ポーランド・リトアニア連合やハプスブルク君主国の再編など、独自のダイナミズムが展開した。このような動きは、ヨーロッパ全体の「17世紀の危機」と結びつきながら、近代世界秩序の形成に重要な影響を与えたと理解される。
用語としての位置づけ
東方の新しい動きは、世界史教科書や歴史概説書で、三十年戦争後の国際政治を西欧と東欧に分けて説明する際によく用いられる呼称である。西欧側では、フランスがアルザスを獲得し、スペインとの対立を終結させるピレネー条約を結ぶなど、主権国家としての地位を高めた。他方、東方では、オスマン帝国のバルカン支配や、ロシアの領土拡大、スウェーデンによる「バルト帝国」の形成など、別種の緊張と再編が進行した。この対比構図のなかで、ベーメンやカタルーニャの反乱、西欧の高等法院といった政治構造も参照されつつ、ヨーロッパ全体の動きを立体的に理解しようとするのがこの概念のねらいである。
オスマン帝国とハプスブルク家の対立
東方情勢を語るうえで、オスマン帝国とハプスブルク家の対立は欠かせない。オスマン帝国はバルカン半島を支配し、ハンガリーやトランシルヴァニアに勢力を伸ばして、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝・オーストリア大公領と直接に国境を接した。ハプスブルク家は、ベーメンの反乱を契機とする三十年戦争で内側から揺さぶられつつも、東方ではオスマン帝国との戦争に備え、軍制改革と財政基盤の再編に取り組んだ。オスマン側の攻勢はしばしばウィーンの城壁まで迫り、バルカン地方のキリスト教諸民族を含む複雑な勢力関係を生み出した。
ウィーン包囲とバルカン世界
特に有名なのが、ウィーン包囲をめぐる攻防である。オスマン帝国はヨーロッパの要衝であるウィーンを攻略しようとし、ハプスブルク家はこれに対抗して神聖ローマ諸侯やポーランド王国などと連携した。バルカン世界では、イスラーム・キリスト教・ユダヤ教の各共同体が混住し、オスマン官僚制のもとで多様な自治が認められた一方、重税や軍役負担が高まると反乱も頻発した。こうした情勢は、西欧での国家形成と並行して、東方における多民族帝国の統治構造とその限界を浮かび上がらせている。
ロシア帝国の台頭と領土拡大
東方の新しい動きにおいて、ロシアの台頭は重要な要素である。ロマノフ朝のもとでロシア国家は内乱期を収束させ、シベリア方面への拡大を進めた。毛皮交易や砦の建設を通じて、オビ川やエニセイ川流域へと進出し、ついには太平洋岸に達したのである。さらに西方では、スウェーデンやポーランド・リトアニア連合とバルト海沿岸の覇権をめぐって争い、のちにピョートル1世の時代にはバルト海への窓口を獲得して、ヨーロッパ国際政治の一大勢力となった。この過程で、ロシア社会では農奴制が強化され、貴族層の軍役義務と行政官僚化が進んだ。
農奴制の強化と社会構造
ロシアを含む東欧世界では、穀物輸出を背景とした大土地所有経営が広がり、農民を領主に拘束する農奴制が厳格化した。領主は農奴の移動の自由を制限し、労働義務や地代負担を増大させることで、西欧への穀物輸出で利益を得た。これは、商業や貨幣経済が発展し、農奴解放への道を歩みつつあった西ヨーロッパとの対照をなす現象である。こうした「第二の農奴制」とも呼ばれる社会構造の固定化は、東方の政治体制と国際競争力に長期的な影響を残した。
東欧諸国の変容とバルト海世界
東方世界の変化は、ポーランド・リトアニア連合王国やスウェーデン、プロイセンなどの動向にも及んだ。スウェーデンは軍事改革と常備軍を背景に、バルト海沿岸を支配する「バルト帝国」を築き、海上交易と関税収入を独占しようとした。これに対し、ポーランド・リトアニア連合は貴族共和政のもとで内政が停滞し、周辺諸国の干渉にさらされるようになった。プロイセンはホーエンツォレルン家のもとで軍事国家化を進め、のちにドイツ統一の核となる基盤を整えつつあった。
- オスマン帝国:バルカン支配とウィーン包囲を通じて東方の軍事的緊張を形成
- ロシア帝国:シベリア進出とバルト海進出で領土国家として成長
- ポーランド・リトアニア連合:貴族共和政の停滞により周辺列強に圧迫される
- スウェーデン:バルト海覇権をめざす「バルト帝国」として台頭
西欧の変動との連関
東方の新しい動きは、西欧の政治変動と無関係ではない。ベーメンの反乱やカタルーニャの反乱に始まる三十年戦争は、ハプスブルク家の権力を削ぎつつも、オーストリアが東方に勢力を集中させる契機ともなった。フランスでは高等法院や貴族反乱を経て絶対王政が強化され、ピレネー条約後にはスペインに代わる覇権国家として西欧に君臨した。西欧諸国の軍事・財政・外交の再編は、オスマン帝国やロシアを含む東方諸国にとっても無視できない外部要因となり、同時に穀物や銀の流れを通じて、東西ヨーロッパを一体の経済圏として結びつけたのである。