ブラジルの独立|ポルトガルから離脱し国家樹立

ブラジルの独立

ブラジルの独立は、ポルトガルの大西洋帝国からブラジルが分離し、広大な領土をまとめる帝国国家が成立した出来事である。独立年は一般に1822年とされ、皇帝ドン=ペドロ1世を戴く君主制国家として出発した点に大きな特徴がある。同じラテンアメリカでも、スペインからの独立を遂げたメキシコアルゼンチンが共和国となったのに対し、ブラジルは帝政を維持しつつ広大な領域を一体的に保った点が重要である。

植民地ブラジルとポルトガル帝国

ブラジルは16世紀以降、ポルトガルの植民地として発展し、砂糖・金・コーヒーなどの輸出によって帝国経済を支える地域となった。アフリカからの奴隷労働に依存した農園経営は、のちに帝政期まで継続する社会構造を形づくった。一方、スペイン植民地とは宗主国が異なり、政治的にも一体の副王領として分割されていなかったため、のちにブラジルの独立後も領域の分裂が起こりにくい条件があったとされる。

ナポレオン戦争と宮廷のリオ移転

転機となったのは、ナポレオンのポルトガル侵攻である。1807年、フランス軍の圧力を受けたポルトガル王室は艦隊とともに大西洋を渡り、1808年にリオデジャネイロへ移転した。これによりブラジルは事実上、王国の政治・経済の中心となり、1815年には「ポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国」として、ブラジルは本国と同格の王国と位置づけられた。この経験は、のちの独立後にも帝都リオを中心とする一元的な統治を正当化する要因となった。

ポルトガル自由革命とドン=ペドロ

しかしヨーロッパでナポレオン体制が崩壊すると、ポルトガル本国では1820年に自由革命が起こり、憲法制定会議(コルテス)が王権の制限と宮廷の本国帰還を要求した。王ジョアン6世は1821年にリスボンへ帰国するが、ブラジル側には皇太子ドン=ペドロを摂政として残した。コルテスはブラジルの自治機関を解体し、植民地的地位へ戻そうとしたため、リオやサンパウロなどのエリートは権益防衛のため摂政と結びつき、ペルーボリビアなど他地域の動向を参考にしながら、自立志向を強めていった。

「イピランガの叫び」と独立宣言

1822年1月、ドン=ペドロは「残留宣言(フィーコ)」を発してブラジルにとどまる意思を表明し、ポルトガルの命令に従わない姿勢を鮮明にした。サンパウロ州選出の政治家ジョゼ・ボニファシオらがこれを支え、各地で自治政府づくりが進められた。1822年9月7日、ペドロはサンパウロ近郊のイピランガ川のほとりで「独立か死か」と叫び独立を宣言したと伝えられ、この場面は「イピランガの叫び」として国民的記憶となっている。その後も本国軍との戦闘は続いたが、海上覇権を握るイギリスの仲介もあり、1825年にポルトガルはブラジルの独立を承認した。

ブラジル帝国の成立と特徴

ブラジルの独立後、ドン=ペドロは皇帝ペドロ1世として即位し、立憲君主制にもとづくブラジル帝国が成立した。帝国憲法は皇帝に強い権限を認め、地方の分離運動を抑えながら中央集権的な統治を進めた。これは、スペイン帝国崩壊後にコロンビアエクアドルベネズエラなどが分立した過程と対照的である。一方で、奴隷制は帝国期を通じて維持され、砂糖やコーヒー輸出に依存した社会構造は、のちの奴隷制廃止と共和政移行に至るまでブラジル社会に深い影響を与え続けた。

ラテンアメリカ独立運動との関連

サン=マルティンやシモン=ボリバルが指導したスペイン領ラテンアメリカの独立運動と比較すると、ブラジルの独立は、宗主国王家の一員が新国家の君主となる「上からの独立」であった。このため、既存エリート層の利害を大きく損なわず、広大な領土の統一を維持しやすかった反面、社会改革や奴隷制廃止は遅れた。ラテンアメリカ全体の文脈のなかで見れば、ブラジル帝国は大コロンビアパナマ会議とともに、19世紀前半の国際秩序再編と民族国家の形成過程を理解するうえで重要な位置を占めている。