ピューリタン革命
ピューリタン革命は、17世紀前半のイングランドで起こった国王と議会の対立が内戦に発展し、国王チャールズ1世の処刑と共和政樹立に至った政治・宗教・社会の大変動である。しばしば「イングランド内戦」とも呼ばれ、後の名誉革命や立憲王政の成立へつながる「近代的な市民革命」の出発点と位置づけられる。背景には、イギリス国教会をめぐる宗教対立、絶対王政的傾向を強める王権と課税権を主張する議会との対立、急成長するジェントリや市民層の台頭といった、多様な要因が絡み合っていた。
時代背景とイギリス国教会
16世紀のヘンリ8世以来、イングランドではローマ教皇から離脱したイギリス国教会が国家教会として位置づけられていた。しかしその教義や儀礼はカトリック色をなお残しており、より徹底した宗教改革を求める人々が現れた。彼らがピューリタン(Puritan)と呼ばれ、17世紀には都市の中産市民やジェントリの間で勢力を伸ばした。一方で国王側は国教会を統一の手段として利用し、大陸のカルヴァン派と距離を取ろうとしたため、両者のあいだで教会組織と礼拝をめぐる対立が激化していった。
ジェームズ1世・チャールズ1世と議会の対立
テューダー朝が断絶すると、スコットランド王家出身のジェームズ1世が即位し、ステュアート朝が始まった。ジェームズ1世とその子チャールズ1世は王権神授説を唱え、議会の同意なしに課税を行おうとしたため、伝統的慣習法であるコモン=ローを重んじる法曹やジェントリと対立した。とくにチャールズ1世は、軍事費調達のために強制借上げや船舶税などを乱発し、これに対して議会は課税には自らの同意が不可欠であると主張して権利の請願(1628年)を提出したが、国王はこれを無視してたびたび議会を解散した。
短期議会・長期議会とスコットランドの反乱
チャールズ1世は、大主教ラッドのもとで国教会の儀礼をカトリック的に改革しようとし、長老派の多いスコットランドに国教会制度を強制したため、1630年代末にスコットランドの反乱が起こった。反乱鎮圧には多額の軍事費が必要となり、国王は11年ぶりに議会を招集したが、課税を急ぐ国王と不満を募らせた議員が対立して、この議会はすぐに解散され「短期議会」と呼ばれた。その後も財政難が続き、再び招集された議会は解散されず、王権批判と改革論議を続けたため「長期議会」と呼ばれ、国王と議会の対立は決定的となった。
内戦の勃発と展開
1642年、チャールズ1世が議会の指導者を武力で逮捕しようとしたことをきっかけに、国王派と議会派のあいだで本格的な内戦が始まった。国王派には貴族や地方の保守的ジェントリが多く、議会派にはロンドン市民やピューリタン系ジェントリが多かった。議会派内部では急進的な宗教改革と政治改革を求める勢力が台頭し、その代表としてオリヴァー・クロムウェルが頭角をあらわした。
ニューモデル軍とチャールズ1世の処刑
クロムウェルは、信仰心と規律を重んじる常備軍「New Model Army」を組織し、1640年代半ばには内戦の主導権を握った。王党軍は各地で敗北し、ついにチャールズ1世は議会派に捕らえられる。穏健派は国王との妥協を模索したが、軍と急進派は国王が再び専制を復活させると警戒し、1649年、特別裁判所でチャールズ1世に反逆罪の判決を下して公開処刑に処した。これはヨーロッパの絶対王政のもとで、現職国王が法に基づき裁かれた前例のない事件であり、王権神授説に重大な打撃を与えた。
共和政と護国卿クロムウェル
国王が処刑されると、イングランドは王政を廃止して「Commonwealth」と呼ばれる共和政を宣言した。名目上は議会主権の共和国であったが、実際にはニューモデル軍を背景とするクロムウェルの影響力が増大し、1653年には彼が「護国卿(Lord Protector)」に就任して事実上の軍事独裁に近い政体となった。クロムウェル政権は、ピューリタン的道徳を社会に強く押しつける一方、海上覇権をめぐってオランダと戦い、航海法を制定して商業・海運の発展を促した。これにより、イングランドは後の植民地帝国の基礎を築き始めたのである。
ピューリタン革命の終結とその意義
クロムウェルの死後、軍政に対する反発と政局の混乱が続き、結局1660年には王政が復活してチャールズ2世が即位し、形式上はステュアート朝が再建された。したがってピューリタン革命は、短期的には王政の廃止と共和政の樹立という急進的な成果を維持できなかった。しかし、議会が課税や立法に関する権利を強く主張し、国王の専制を抑えようとした経験は、その後の名誉革命と権利章典の制定を通じて、立憲王政と議会政治の定着へつながった。また、ピューリタンの信仰と倫理は、後にアメリカへも受け継がれ、近代的な市民社会と資本主義の形成に重要な影響を与えたと評価されている。こうしてピューリタン革命は、イングランドのみならずヨーロッパ全体の政治思想と社会構造の転換点として、世界史上大きな意味を持つ出来事であった。