ドイツのアフリカ進出
ドイツのアフリカ進出とは、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、統一後のドイツ帝国がアフリカ大陸に植民地帝国を築いていった過程である。1871年の統一後、急速な工業化を背景に、原料供給地と商品市場、さらには資本の投資先を求める動きが強まり、ドイツも他の列強と同様にアフリカへと関心を向けた。南西アフリカ、東アフリカ、カメルーン、トーゴなどがドイツの主要植民地となり、しばしば「遅れてきた帝国主義国家」と評される。
19世紀後半のドイツと帝国主義
1871年のドイツ統一後、初代宰相ビスマルクは当初、ヨーロッパでの勢力均衡を重視し、アフリカ植民地獲得には慎重であった。しかし、工業資本家や商人団体、植民協会などが海外進出を強く要求し、国内の愛国的世論やナショナリズムの高まりが政府に圧力を加えた。これにより政府は次第に植民地獲得へと傾き、1880年代前半からアフリカ進出を本格化させていく。
ベルリン会議と「アフリカ分割」
1884〜1885年に開催されたベルリン会議は、ヨーロッパ列強によるアフリカ支配のルールを定めた国際会議であり、「アフリカ分割」と呼ばれる過程の転機となった。ここでは、実効支配をともなう占有が認められることや、コンゴ川・ニジェール川流域の通商の自由などが確認され、列強は競ってアフリカ内陸へ進出した。ドイツもこの枠組みの中で、自国の勢力圏を明確化しようとし、複数の地域を植民地として宣言することで、新たな領土を獲得していった。この過程全体が、いわゆるアフリカ分割である。
ドイツのアフリカ植民地の形成
ドイツは1880年代半ばから相次いで保護領や植民地を宣言し、短期間にアフリカ植民地帝国を築き上げた。代表的な植民地は次の地域である。
- ドイツ領南西アフリカ:現在のナミビアにあたり、1884年に保護領とされた。入植地の拡大に対してヘレロ人・ナマ人が抵抗し、1904〜1907年には大規模な反乱と弾圧が起こり、20世紀最初期のジェノサイドと評価されている。
- ドイツ領東アフリカ:現在のタンザニア本土、ルワンダ、ブルンジなどを含み、1885年に支配が認められた。プランテーション経営や強制労働、税制に対する不満から、1905〜1907年には「マジマジ反乱」が起こり、多数の犠牲者が出た。
- カメルーン:1884年に保護領化され、沿岸部の商業拠点から内陸へ支配を拡大した。プランテーション農業やインフラ整備が進められたが、その背後には現地社会の統制と搾取が存在した。
- トーゴ:1884年にドイツの保護領となり、小規模ながら「模範植民地」と称されるほど行政・教育・インフラ整備が進められた。しかし、それも現地住民の負担と統制のうえに成り立つものであった。
経済的・政治的背景
ドイツのアフリカ進出の背景には、工業化の進展にともなう原料・市場・投資先の需要があった。また、国内の商人・銀行・造船業者・軍部などが海外進出を支持し、国家に政策転換を迫った点も重要である。ビスマルク退陣後、ヴィルヘルム2世のもとで「世界政策」が掲げられると、ドイツは海軍拡張とともに植民地支配を強め、イギリスやフランスとの対立も激化した。こうした帝国主義的競争は、やがて列強間の緊張を高め、第一次世界大戦の遠因の一つともなった。
アフリカ社会への影響とその後
ドイツのアフリカ進出は、鉄道や港湾・行政機構・学校などをもたらした一方で、土地収奪、強制労働、文化的抑圧、暴力的な鎮圧など、多大な犠牲と社会的混乱をもたらした。南西アフリカでのヘレロ人・ナマ人の虐殺や、東アフリカでのマジマジ反乱弾圧は、その象徴的な事例である。第一次世界大戦の結果、ドイツはすべてのアフリカ植民地を失い、それらの領土は他の列強の委任統治領へと再編された。しかし、ドイツ支配期に形成された国境線や経済構造、記憶やトラウマは、独立後のアフリカ諸国にも長く影響を及ぼしている。