タークシン王
タークシン王は、18世紀後半のシャム(のちのタイ)で活躍した君主であり、ビルマ軍によるアユタヤ陥落後にトンブリーを拠点として国家を再建した人物である。トンブリー王朝を開いたが、正式な歴代王には含めない場合も多く、ラーマ1世以前の過渡期の支配者として位置づけられる。ビルマのコンバウン朝との戦争の中で頭角を現し、諸勢力をまとめて領土を再統一したことから、国難を救った英雄として記憶されている。
生い立ちとアユタヤ末期の経歴
タークシン王は中国系商人を父にもつ家庭に生まれ、幼少期から交易と行政の双方に通じる環境で育ったとされる。アユタヤ王朝末期には地方官や軍人として頭角を現し、ビルマとの戦争が激化する中で王都防衛に従事した。当時のアユタヤは長年の戦争と宮廷内の権力争いにより弱体化しており、周辺の東南アジア交易の発展の波に乗り切れず、国家財政も逼迫していた。このような危機的状況のなかで見せた統率力と行動力が、のちの即位につながる素地となった。
アユタヤ陥落とトンブリー王朝の成立
1767年、ビルマのコンバウン朝軍がアユタヤを陥落させると、王都は徹底的に破壊され、多くの住民が捕虜として連れ去られた。混乱のさなかでタークシン王は一部の兵を率いて包囲を脱出し、勢力を立て直したのち、チャオプラヤ川河口近くのトンブリーに拠点を構えた。彼は周辺の諸勢力や地方軍閥を次々と服属させ、ビルマ軍に対する反攻を続けることで支持を集め、やがてトンブリーで王位に就く。こうして、後のチャクリ王朝へとつながるトンブリー王朝が成立したのである。
国内統一と統治政策
タークシン王の統治において最も重要であったのは、内戦状態に近かったシャム各地の平定と行政体制の再建である。彼は旧アユタヤ領を回復するとともに、地方の有力者を官僚として取り込み、徴税と軍役の仕組みを整え直した。また、寺院や仏像の修復を進め、上座部仏教を国家統合の精神的基盤として再確認した。周辺のモン族やクメール人など多様な住民も支配下に収め、18世紀の東南アジア交易の発展のなかで米や森林産物を輸出し、財政の立て直しを図った点も特徴である。
対外関係と海上交易
タークシン王は、海上交易を重視した君主としても知られる。彼は清朝との朝貢関係を再開するとともに、ベトナムやカンボジアに対して軍事行動と外交交渉を組み合わせ、メコン川流域への影響力を拡大した。インド洋方面では、マレー半島やジョホール王国周辺の港市との交易により銀と商品の流れを呼び込み、シャムの港湾都市を活性化した。同時期、インドではマイソール王国やマラーター同盟などが勢力を伸ばし、シヴァージーの築いた軍事・海上力を継承した勢力とヨーロッパ勢力が角逐しており、その動向はシャムの外交戦略にも間接的な影響を与えたと考えられる。
晩年と失脚
晩年のタークシン王については、戦争と再建に追われるなかで精神的に不安定になったとする伝承が多い。周囲の臣下との対立が深まり、宗教的狂信とも受け取られかねない行動をとったとされ、やがて有力将軍チャオプラヤ・チャクリ(のちのラーマ1世)らによるクーデタが起こった。タークシン王は退位させられ、チャクリ家による新王朝が成立し、首都もバンコクへ移された。トンブリー王朝はここに終焉を迎えるが、国難のなかで国家を再統一した功績はその後も語り継がれ、アユタヤとチャクリ王朝をつなぐ過渡期の君主として、タイ史において重要な位置を占めている。