マイソール王国|南インドでムガルに抗した王国

マイソール王国

マイソール王国は、南インドのデカン高原南部からカーナティカ一帯を支配したヒンドゥー教系の王国である。中世末期に地方領主として台頭し、やがてヴィジャヤナガル王国崩壊後の南インド秩序を担う勢力の一つとなった。18世紀には軍人ハイダル=アリーとその子ティプー=スルターンが実権を握り、ムガル帝国衰退とインド地方勢力の台頭という状況の中で、マラーター王国・ニザーム政権・イギリス東インド会社と覇権を争った。近代的軍制と財政改革を導入しつつも、連続する戦争に敗れて19世紀初頭にはイギリスの保護国となり、植民地支配の枠内に組み込まれていった。

地理的環境と成立

マイソールの中心地域は西ガーツ山脈と東ガーツ山脈に挟まれた高原地帯であり、季節風による降雨と河川網に恵まれた農業地域であった。この地では中世より在地の有力家系が小王国やナーヤカ政権を形成し、宗教都市や城塞都市を拠点に支配を行った。16世紀には南インド全域を支配するヴィジャヤナガル王国の宗主権の下でワディヤル家がマイソールの支配者として地位を確立し、王国形成の基盤が整えられたのである。

ワディヤル朝と南インド諸勢力

17世紀、ヴィジャヤナガル王国がタリコータの戦い以後急速に衰退すると、マイソールのワディヤル朝は宗主から独立した王権を主張するようになった。彼らはデカン高原で勢力を伸ばすマラーター王国や、ゴルコンダ・ビージャープルなどのイスラーム王国と同盟・抗争を繰り返しながら領域を拡大した。この過程で、各地の土地収入を掌握するための徴税機構が整備され、都市にはヒンドゥー教寺院やイスラームのモスク、市場が並存する多元的社会が形成されていった。

ハイダル=アリーの台頭

18世紀半ば、軍人出身のハイダル=アリーが宮廷内の抗争を背景に実権を掌握した。彼は形式上ワディヤル朝王を存続させつつ、自らが宰相・将軍として統治を指導した。ハイダル=アリーは常備軍の整備と火器の増強に努め、フランス人軍事顧問の助力を得てヨーロッパ式訓練を導入した。また土地税の再評価や貨幣制度の整理を進め、綿織物や香辛料の産地であったマラバール海岸への進出を図り、対外交易に依存するムガル帝国末期とは異なる南インド型の軍事財政国家を志向したとされる。

ティプー=スルターンの改革と対英戦争

ハイダル=アリーの死後、その子ティプー=スルターンが王権を継承すると、改革はさらに進められた。ティプーはイスラーム教を篤く信仰しつつ、実務面では世俗的な行政官僚制を強化し、州ごとの行政区画と官僚の階梯を整備した。彼は貨幣・度量衡の統一、国家主導の商業会社の設立、胡椒・カルダモンなどの特産品の専売化などを通じて財政基盤を強化し、イギリス東インド会社に対抗しうる経済力を獲得しようとしたのである。

軍事技術と国際関係

  • ロケット砲を用いた砲兵部隊の整備は、ヨーロッパにも衝撃を与えたと伝えられる。
  • ティプーはフランス革命期のフランスと接近し、反英同盟を模索した。
  • 一方で、北インドではマラーター同盟やシク教勢力が台頭し、南北で分断されたムガル帝国後の政治秩序が形作られていった。

イギリスとの四次マイソール戦争と王国の終焉

18世紀後半から19世紀初頭にかけての四次にわたるマイソール戦争は、インド地方勢力の台頭とヨーロッパ勢力の介入が交錯する象徴的事件である。ティプーはフランスと連携しつつイギリスに抵抗したが、1799年のセリンガパタム陥落で戦死し、マイソールは大幅に領土を削られたうえで、ワディヤル朝がイギリスの保護下で復活する形に再編された。その後、王国は名目的な藩王国として存続したが、実権はイギリス東インド会社と英領インド政府に移り、南インド支配の一環として組み込まれていった。

南インド史・インド史における意義

マイソールの経験は、ムガル帝国とアウラングゼーブの宗教政策マラーター王国シヴァージーの反乱、北インドのイスラーム建築を代表するタージ=マハルなどと並び、近世から近代へのインド世界の変容を理解するうえで不可欠である。北インドで形成されたヒンディー語文化圏や、シク教の聖地アムリットサールを中心とするパンジャーブ地域とは異なり、南インドではマイソールのような地方王国が、地域社会に根ざした軍事財政国家としてイギリスに最後まで抵抗した点に特徴がある。このような視点からマイソールを位置づけることで、インドにおける近代国家形成と植民地化の多様な道筋を捉えることができるのである。