ジョホール王国
ジョホール王国は、16世紀以降のマレー半島南端に成立したマレー系イスラーム王朝である。1511年にマラッカ王国がポルトガルに征服されると、その王族がジョホール川流域に移り、新たな政権を樹立した。王国はマラッカ海峡の要地を押さえ、アチェやジャワ諸島勢力、ヨーロッパ諸国との抗争と同盟を通じて、東南アジア海上世界の政治・経済に大きな影響を与えた。
成立とマラッカ王国の継承
ジョホール王国の初代スルタンは、マラッカ最後の王の子とされるアラウッディーン・リアーヤット・シャーである。彼はマラッカ陥落後、家臣団や商人とともに南方へ移動し、ジョホール川河口域に宮廷を構えた。王国はマラッカの行政制度や宮廷儀礼を受け継ぎ、マレー語とイスラム教を基盤とする「マレー世界」の中心の一つとして再出発した点に特徴がある。
政治構造とマレー社会
ジョホール王国の統治は、スルタンを頂点とし、その下にベンダハラ(宰相)、ルバラン(軍司令官)などの高官が配置される伝統的マレー王国の枠組みによって支えられた。地方では首長層が在地社会を支配し、海民と呼ばれる舟乗り集団が沿岸防衛と交易に従事した。こうした階層構造は、かつてのマラッカ王国と共通しつつ、海上移動性の高い社会を形成していた点で特色をもつ。
海上交易と経済活動
マラッカ海峡に面するジョホール王国は、東南アジアとインド洋世界を結ぶ中継貿易によって繁栄した。胡椒や錫などの産物が内陸から集まり、グジャラートや紅海方面からのイスラーム商人、中国や日本からの商船が港市を往来した。スルタン権力は港の治安維持と関税徴収を通じて富を蓄積し、香辛料貿易の拠点として国際的な役割を果たした。
アチェ・ヨーロッパ勢力との抗争
ジョホール王国は、スマトラ島北端のアチェ王国と、マラッカ支配をめぐって激しい争奪戦を繰り広げた。また、マラッカに拠点を置くポルトガルともしばしば軍事衝突が生じた。17世紀に入ると、オランダとオランダ東インド会社が海峡支配に参入し、ジョホールは彼らと同盟関係を結びつつ、ポルトガル勢力の排除に協力した。こうした三つ巴の抗争は、海峡一帯の勢力図を大きく塗り替える契機となった。
オランダとの同盟と勢力拡大
17世紀半ば、ジョホール王国はアチェに対抗するためオランダと接近し、マラッカ海峡南部の港市支配を強めた。同盟関係のもとでポルトガルのマラッカは最終的に陥落し、海峡貿易はオランダとジョホールが大きな影響力を持つ体制へと再編された。ただしオランダ側は独自の商業利益を優先し、ジョホールの主権は次第に制約を受けるようになった。
18~19世紀の変容と衰退
18世紀になると、ブギス人勢力の台頭や後継争いがジョホール王国の統合を揺るがし、王権はジョホール本土とリアウ諸島に分裂した。19世紀初頭には、シンガポールへの英人ラッフルズの来航を契機に、イギリスとオランダが海峡一帯を勢力圏に分割し、ジョホールの自主性は大きく制限された。やがてジョホールはイギリス帝国の保護下に置かれ、近代マレー諸州の一部として再編されていった。
東南アジア史における意義
ジョホール王国は、マラッカ陥落後もマレー語・イスラーム文化を継承しつつ、海上ネットワークを通じて政治と商業を結びつけた王国である。その存在は、東南アジアの近世史が単なる植民地支配の開始ではなく、在地王権とヨーロッパ勢力、イスラーム商人世界が複雑に交錯する時代であったことを示している。