ジェームズ2世|名誉革命で退位したカトリック王

ジェームズ2世

ジェームズ2世は、ステュアート朝のイングランド・スコットランド・アイルランド王であり、カトリック教徒として即位した最後の英国君主である。兄のチャールズ2世の後を継いで即位したが、その統治は専制的傾向とカトリック優遇政策ゆえに議会やプロテスタント勢力と激しく対立し、最終的に名誉革命によって退位させられた。彼の治世は、絶対王政から立憲王政へと向かうイングランド史の転換点として理解されている。

出自と若年期

ジェームズ2世はステュアート朝国王チャールズ1世の次男として生まれ、王太子である兄チャールズ(のちのチャールズ2世)とともに王家の一員として育った。清教徒革命によって父が処刑されると、王族は大陸へ亡命し、彼もフランスやオランダで軍務に就きながら経験を積んだ。イングランド本国では共和政と護国卿クロムウェルの統治が続いていたが、王党派は王政復活の機会をうかがっていた。

王政復古とヨーク公としての活動

クロムウェル体制の崩壊後、1660年に王政復古が実現すると、兄が国王として帰還し、彼はヨーク公として王位継承権を持つ有力な王族となった。ヨーク公は海軍総司令官として第二次・第三次英蘭戦争で戦績を上げ、王政復古期の軍事面で重要な役割を果たした。一方で、彼がカトリックに改宗していたことは広く知られるようになり、将来の宗教問題への不安を議会や国民に抱かせる要因となった。

審査法と除外法危機

王政復古期の議会は、官職就任者に国教会への忠誠を求める審査法を制定し、カトリックや非国教徒を公職から排除しようとした。ヨーク公であったジェームズ2世のカトリック信仰は、この法と鋭く衝突する性格を持っていた。のちに王位継承から彼を排除しようとする「除外法運動」が起こると、王位継承問題をめぐって議会内に対立が生まれ、王権支持のトーリ党と議会優位を掲げるホィッグ党という二つの政党が形成され、イングランドの党派政治が本格化していった。

即位と宗教政策

兄王の死によりジェームズ2世が即位すると、彼は王権の強化とカトリックの地位向上を目指した。カトリック教徒や非国教徒に対する制限を緩和する勅令を発し、国教会の枠を超えた信仰の自由を認めようとしたが、これは国教会と結びついた多くの地主層やジェントルマン階層に専制的な政策と受け止められた。また、常備軍の拡充やカトリック将校の登用など、フランス王ルイ14世に類似した絶対王政的政策は、議会派に王権乱用の疑いを抱かせ、反発を強める結果となった。

名誉革命と退位

在位中、王の長女メアリはプロテスタントとしてオランダ総督ウィレム3世と結婚していたため、当初は将来プロテスタント君主が誕生するとの期待もあった。しかし、王妃が男子を出産すると、カトリック王朝が継続するとの危機感がイングランドのエリート層に広がった。そこで一部の有力貴族と政治家はオランダのウィレムを招請し、軍を率いて上陸させる。これにより起こったのが名誉革命であり、流血の少ない政変によってジェームズ2世はフランスへ亡命し、議会は王位をメアリとウィレム(ウィリアム3世)に与えた。

亡命後の生活とジャコバイト運動

亡命後、彼はフランス宮廷の保護を受けつつ、自らの王位回復を目指した。アイルランドやスコットランドでは、カトリックや王党派の支持者が彼とその子孫の王位継承を主張し、いわゆるジャコバイト運動が展開された。アイルランドでの戦いは敗北に終わり、王位回復の試みは成功しなかったが、この運動は18世紀半ばまで続き、イングランドとスコットランドの政治・社会に不安定要因を残した。

イングランド議会政治の発展との関連

ジェームズ2世の退位後、議会は権利章典を制定し、王権の制限と議会の優位を明文化した。これは、近代的な立憲体制とイギリス議会政治の確立に向かう過程で重要な一歩とされる。彼の専制的とみなされた統治とその崩壊は、絶対王政への警戒感を強め、王は「法に従う存在」であるという原則が広く共有される契機となった。

歴史的評価と意義

ジェームズ2世の治世は短く、政策もほとんどが挫折に終わったものの、その失敗はイングランドにおける立憲君主制の方向性を決定づけたという点で大きな意義を持つ。カトリック教徒としての王とプロテスタント国家としてのイングランドとの矛盾、王権と議会の力関係、宗教的寛容と国教会制度の対立など、彼の時代に噴出した諸問題は、近代イギリス国家の枠組みを形作る試金石となったのである。