シャルル7世
シャルル7世はフランス王国ヴァロワ家の君主(在位1422–1461)であり、内戦と英仏の長期戦の只中で王権を再建し、百年戦争をフランス勝利へ導いた国王である。父シャルル6世の治世末に王国が分裂し、王太子であったシャルル7世は「ブールジュの王」と揶揄されるほど支配基盤が弱体であったが、ジャンヌ=ダルクの登場、外交転換、軍事・財政改革を通じて王権の回復に成功した。彼の統治は、分権的秩序から王権集中へと向かう転換点を画し、近世フランス国家形成の出発点と位置づけられる。
出自と即位の危機
シャルル7世は1403年、シャルル6世とバイエルン公女イザボーの子として生まれる。内戦(アルマニャック派とブルゴーニュ派の抗争)の中で兄たちの死去により王太子となったが、1420年のトロワ条約で継承権を否認され、イングランド王ヘンリ5世とその子に王位が約されると、王国は事実上二重権力となった。1422年に英王とシャルル6世が相次いで没すると、パリでは幼王ヘンリ6世が推され、ヴァロワ系の王位を主張したシャルル7世は中部以南の限られた領域に退いた。
補足:トロワ条約の意義
トロワ条約は王太子の私生児説を口実にヴァロワ継承を否定し、王権を英王系へ移そうとした政治文書である。これにより内戦は国際戦争と結びつき、百年戦争の最終局面は王位継承戦の性格を強めた。
オルレアン解放とランス戴冠
1429年、ジャンヌ=ダルクが登場し、包囲下のオルレアンを解放して戦局を一変させた。勢いに乗ったシャルル7世は王権の正統を示すため聖油の地ランスへ進軍し、同年に戴冠した。ランス戴冠は神聖性の回復を意味し、内外の支持を呼び戻す効果を持った。ジャンヌの捕縛と処刑後も、この象徴資本は王権の再建を後押しした。
補足:ジャンヌの位置づけ
ジャンヌは軍事的転換の火付け役でありつつ、王権の宗教的正統性を可視化した存在である。彼女の行動は民衆と諸都市の士気を鼓舞し、ジャンヌ=ダルク神話は以後の王権イメージにも影響した。
外交転換と内戦終結
1430年代、シャルル7世は懐柔と同盟の政策に転じ、1435年のアラスの和議でブルゴーニュ公国と和解した。これは内戦を決定的に収束させ、英軍を孤立させる一大転機であった。翌年にはパリが回復し、王都機能の再建が進む。以後、王権は諸侯との交渉と懐柔を重ね、反乱傭兵や無頼化した兵(エコルシェール)の制御に取り組んだ。
補足:ブルゴーニュとの和解
和議はフィリップ善良公への譲歩を含んだが、王権回復のための必要コストであった。対立の終息は交易の復活と財政基盤の安定にも寄与した。関連項目:ブルゴーニュ公。
軍事・財政改革と常備軍の創出
シャルル7世は1440年代に軍制改革を断行し、王令により騎兵中核のコンパニ・ドルドナンス(編制常備軍)を設置、地方歩兵フランシュ=アルシェを整備した。これに伴い恒常的な直税(タイユ)の徴収が制度化され、戦時動員から平時維持へと軍の性格が転換する。さらに砲兵の専門化が進み、ビューロー兄弟らの指揮で攻城・野戦における火砲運用が洗練された。
補足:砲兵革命
改良された攻城砲は英軍の城郭線を次々に陥落させた。火器・火砲(鉄砲と大砲)の体系的運用こそが後期戦局の主導権をもたらしたと評価される。
教会政策と王権の自立
1438年のブルジュの勅令(プラグマティック・サンクション)は公会議主義を受容しつつ教皇庁への従属を制限し、叙任・収入配分における王権の統制を強めた。この政策により、シャルル7世は宗教領域でも自立性を確立し、国内統治の一元化を推し進めた。
百年戦争終結と領土回復
1449年以降、ノルマンディー・ギュイエンヌ方面で反攻が本格化し、1453年のカスティヨンの戦いで英軍は決定的敗北を喫した。これによりフランス本土の英領は港湾都市カレーを除いてほぼ消滅し、百年戦争はフランス優位の形で終結した。勝利は軍制・財政改革の成果であり、諸都市・商業圏の復興を促した。
統治の実像と後継
シャルル7世は王領直轄支配の拡充、司法機関の整備、王会議の機能強化に努め、諸侯の自立と折衝しつつも「王の平和」を再建した。宮廷ではアニェス・ソレルの存在が知られ、文化保護も進んだ。1461年に没し、息子ルイ11世が継承して中央集権化をさらに推進する。ヴァロワ王権はここに安定局面へ入り、近代国家への道筋が定まったといえる。関連項目:ヴァロワ朝。
参考:用語と年表(簡略)
- 1420年:トロワ条約(王太子の継承否認)
- 1429年:オルレアン解放、ランス戴冠
- 1435年:アラスの和議(内戦終結の転機)
- 1438年:ブルジュの勅令(教会政策)
- 1445–48年:軍制改革(常備軍・歩兵制度)
- 1453年:カスティヨンの戦い、戦争終結