ヘンリ5世|アジャンクール勝利と王権強化

ヘンリ5世

ヘンリ5世(1386/87-1422)は、イングランドのランカスター朝の国王であり、在位1413-1422に百年戦争後期の主導権を握った統治者である。1415年のアジャンクールの戦いでの大勝によって軍事的名声を確立し、1420年のトロワ条約でフランス王位継承権を獲得した。若年期から実戦で鍛えられ、内政では治安回復、財政整備、議会の活用を推し進めた。敬虔さと規律を重んじる姿勢は王権の道徳的正当性を補強し、同時代から後世に至るまで英雄的イメージを形成した。

生涯と即位

ヘンリ5世はモンマスに生まれ、ヘンリ4世の子として政治と戦場で鍛えられた。ウェールズ反乱鎮圧や1403年のシュルーズベリーでの戦闘経験は、王としての軍事的判断力の基礎となった。1413年に即位すると王室財政の立て直しと治安強化を優先し、治世初期にはロラード派の動揺に対処して王権の秩序維持を示した。彼は宮廷の浪費を抑え、評判の悪かった取り巻きを整理し、王権と貴族層の均衡を取り戻した。

対フランス戦略と開戦の目的

百年戦争再開に際し、ヘンリ5世はエドワード家の継承主張を法理と宣伝に統合した。国内では交易と関税収入を梃子に遠征財源を整備し、海軍と補給線を重視した。遠征軍は長弓兵と槍盾の歩兵を主軸とし、工兵や初期の火器も動員された(関連:百年戦争エドワード3世大砲)。外交面ではフランス王家の内紛とブルゴーニュ派・アルマニャック派の対立に付け込み、有利な講和を見据えた段階的戦争を志向した。

1415年アジャンクールの戦い

1415年、ヘンリ5世はハーフルール包囲後に兵を細らせつつも北仏を縦断した。アジャンクールでは泥濘の狭隘な地形に敵の重装騎士を誘い込み、長弓の射撃と歩兵の押しでフランス軍を瓦解させた。指揮統制の徹底と兵站の粘りが、兵力劣勢を覆す決定的勝利を生んだ(関連:エドワード黒太子の戦術的遺産)。

野戦の戦術と編成

  • 弓兵は杭を前方に打ち、騎兵突撃を減速させて面攻撃を最大化した。
  • 中央に重装歩兵を置き、側面から弓兵が圧力を加える挟撃配置を採用した。
  • 捕虜処分を含む厳格な戦場統制により逆襲の芽を摘み、戦線秩序を維持した。

トロワ条約と王位継承の布石

内乱の続くフランスで、ヘンリ5世はブルゴーニュ派と接近した。1419年の政変後、1420年のトロワ条約によりシャルル6世は彼を王太子に指名し、カトリーヌ・ド・ヴァロワとの婚姻で法的紐帯を固めた。これによりフランスの正統性は二重化し、王権をめぐる構図は一変した(関連:ヴァロワ朝ブルゴーニュ公)。

占領統治とノルマンディー経営

ヘンリ5世はノルマンディーに行政・財政・司法の枠組みを整備し、都市の自治慣行を活用して収入基盤を拡大した。貨幣管理や関税の統合で占領コストを抑え、現地エリートの協力を取り付けた。港湾や内陸交易路の確保は軍需と市民生活の両面で効果を発揮し、イングランドの毛織物輸出にも安定をもたらした(関連:毛織物アキテーヌ地方ギエンヌ地方)。

内政と宗教秩序の維持

国内では治安回復と「王の平和」の徹底を図り、王室領の収益化、租税請求の正統化、議会との協調を通じて遠征を支えた。宗教面では異端動向に厳格に対応し、社会規律と王権の道徳的権威を連動させた。宮廷では節度を重んじ、王の自制が政治の安定を象徴した。

死、二重王権の危機、そして遺産

1422年、ヘンリ5世は遠征途上で病没した。幼いヘンリ6世がイングランドとフランス双方の王位を継承したが、政権は摂政体制下で分裂圧力に晒され、やがてフランス側の反攻と聖女ジャンヌの台頭が均衡を崩した。それでも彼の軍制・財政・宣伝の三位一体の戦争運営は、英王権の可能性と限界を鮮烈に示した。

史料・記憶・文化的影響

同時代記(Thomas Elmham、Tito Livio など)や行政文書は、ヘンリ5世の規律と計画性を伝える。後世ではWilliam Shakespeare『Henry V』が国民的英雄像を定着させ、アジャンクールは軍事史における兵站・地形・士気の教科書的事例となった。英仏の王権と戦争の関係を考えるうえで、彼の治世は転換点として学術的関心を集め続けている。