ザクセン選帝侯フリードリヒ
ザクセン選帝侯フリードリヒは、一般に「フリードリヒ賢公」と呼ばれるザクセン公フリードリヒ3世であり、16世紀初頭の神聖ローマ帝国において最も有力な諸侯の一人である。彼はルターを保護したことで知られ、宗教改革初期の展開に決定的な影響を与えた人物であり、政治家としてだけでなく、学問と信仰を重んじた統治者として歴史に名を残している。
生涯と家系的背景
フリードリヒ3世は1463年、ヴェッティン家のエルネスト系に生まれた。ヴェッティン家は中部ドイツに広大な領地を有する有力諸侯であり、その中でもザクセン公は帝国の選帝侯位を占め、皇帝選挙に参加する特権を持っていた。父エルンストの死後、1486年にフリードリヒはザクセン選帝侯位を継承し、以後40年近くにわたり一帯を統治した。彼は慎重かつ温和な性格とされ、軍事的冒険よりも内政と宮廷文化の充実に力を注いだとされる。
学問・信仰政策とヴィッテンベルク大学
フリードリヒは信心深い統治者であると同時に、学問と人文主義に理解を示した君主であった。彼は1502年、自らの居城都市ヴィッテンベルクに大学を創設し、のちに宗教改革の中心となるヴィッテンベルク大学を保護した。この大学には人文主義者メランヒトンや、のちに宗教改革の指導者となるルターが招聘され、神学・法学・人文学の研究が盛んになった。フリードリヒは大学に多くの特権と財源を与え、自らの領国内で学問的権威を育てることで、政治的自立を強める狙いも持っていたと考えられる。
宗教改革とルター保護の背景
宗教改革の発端となった1517年のルターによる贖宥状批判は、フリードリヒの領地内で起こった出来事であった。フリードリヒ自身は伝統的なカトリック信仰を保ち、多数の聖遺物を収集するなど中世的敬虔さを示していた一方で、教皇庁の財政的要求や売買される免罪の慣行には批判的であったといわれる。そのため、ルターの行動が問題視され、教皇や皇帝側から圧力がかかると、フリードリヒは領主としてルターに法的保護と公正な審理を求め、1521年のヴォルムス帝国議会への安全通行保証を取り付けたのである。
ヴァルトブルク城への隠遁と政治的計算
ヴォルムス帝国議会でルターが破門と帝国追放の危険にさらされると、フリードリヒは密かに計画を立て、ルターを擬装誘拐する形でテューリンゲン地方のヴァルトブルク城へ移した。ここでルターは「騎士ゲオルク」と名乗りながら新約聖書のドイツ語訳に着手し、のちのキリスト教世界に大きな影響を与える著作活動を続けた。フリードリヒの行動は、ルター個人への好意だけでなく、皇帝権力から自立し、自らの領邦教会を強化しようとする選帝侯としての政治的計算が働いていたと理解される。彼は公然とローマと決裂することは避けつつ、皇帝カール5世とローマ教皇の両方に対して一定の距離を保つことで、ザクセンの主権を守ろうとしたのである。
文化保護と領邦統治
フリードリヒは、宗教問題だけでなく文化・行政の面でも近世初期の領邦国家形成に重要な役割を果たした。彼は宮廷儀礼や城館の整備、美術品や聖遺物の収集を通じて、自らの権威を象徴的に演出した。また、官僚機構の整備や財政管理の改善を進め、領邦の統治を合理化した点で、後代のプロテスタント諸侯の先駆的存在ともいえる。こうした政策は、のちにアウクスブルクの和議以降に確立する「領主の宗教が領民の宗教を決める」という原則に先立つ、領邦支配の強化の流れの中に位置づけられる。
死と信仰上の立場
フリードリヒは生涯を通じて公式にはカトリックから離脱しなかったとされるが、その晩年にはルター派の教義に傾き、臨終に際して福音主義的な聖餐を受けたと伝えられる。このことは、表向きの慎重な態度とは別に、彼がルターの神学に深い理解と共感を抱いていたことを示すエピソードとして知られる。フリードリヒの死後、後継者たちはより明確にプロテスタント信仰を受け入れ、ザクセンは宗教改革を主導する地域の一つとなっていった。
歴史的意義
ザクセン選帝侯フリードリヒの歴史的意義は、一人の敬虔な君主としてルターを保護しただけでなく、帝国政治と領邦統治の狭間で巧みに行動し、新しい信仰運動の生存空間を確保した点にある。もし彼の保護がなければ、ルターの思想が初期の段階で封じられ、宗教改革の広がりも大きく制約された可能性が高い。フリードリヒは、信仰・学問・政治の三つの領域を結びつけながら、16世紀ドイツにおける近世国家とプロテスタント世界の成立に橋渡しをした人物として評価されている。