オレンジ自由国|南アのボーア人共和国

オレンジ自由国

オレンジ自由国は、19世紀の南部アフリカ内陸部に存在したボーア系農民の共和制国家である。オレンジ川とヴァール川にはさまれた高原地帯に位置し、首都はブルームフォンテーンに置かれた。ケープ植民地から北方へ移住したボーア人アフリカーナーが建設した国家であり、1854年にイギリスがその自治を承認して成立した。やがて隣接するトランスヴァール共和国と連携しつつイギリス帝国と対峙し、1899~1902年の南アフリカ戦争で敗れるまで独立を維持した。

成立の背景

オレンジ自由国成立の直接の背景には、ケープ植民地でのイギリス支配拡大に反発したボーア住民の内陸移住がある。1830年代以降のグレート=トレックによって、ボーアの移民団はオレンジ川とヴァール川以北の高原に進出し、牧畜と自営農業に適した土地を占有していった。当初イギリスは、この地域をケープ植民地の北方保護領として編入しようとしたが、統治コストの高さと先住民勢力との紛争の激化から撤退を決め、1854年のブルームフォンテーン協定で入植者の共和制国家樹立を容認した。

周辺先住民との関係

オレンジ自由国は、ソト人を中心とする高地の諸首長国と領土をめぐり対立した。特にバソトのモショエショエが築いた山地王国との戦争は、国境画定をめぐる長期抗争となり、一部地域は最終的にイギリス保護領バソトランドとして切り離された。このように、国家形成の過程そのものが先住民からの土地奪取と不可分であった点に特徴がある。

政治体制と社会構造

オレンジ自由国は、成文憲法を有する共和国であり、大統領と人民代表会議(フォルクスラート)によって統治された。選挙権と被選挙権は、一定の財産と白人であることを条件として認められ、黒人や有色人種は政治参加から排除された。カルヴァン派プロテスタントの信仰が強く、農民共同体の自律と家父長的な秩序が社会規範として重視された。

  • 国家の主な担い手は自営農民であるコマンドー(民兵)であり、有事には武装して出動した。
  • 公用語はオランダ語系の言語で、のちのアフリカーンス語の基盤となった。
  • 教育制度は宗教色が濃く、教会が学校運営に大きな役割を果たした。

首都ブルームフォンテーン

首都ブルームフォンテーンは行政・司法の中心として整備され、裁判所や議事堂が置かれた。鉄道や通信網の整備が進むと、周辺のナタールやケープ植民地との結節点としても重要性を増し、内陸農産物の集散地として機能した。

経済と社会生活

オレンジ自由国の経済は、羊・牛の牧畜と小麦栽培を中心とする農業に依存していた。毛織物用の羊毛は、ケープ植民地経由でヨーロッパ市場に輸出され、貨幣経済の浸透を促した。一方で、農場経営は黒人労働力に大きく依存しており、賃金労働と半農奴的な従属関係が並存した。西隣の鉱山地帯でダイヤモンド採掘が始まると、イギリス資本と結びついたセシル=ローズらの活動が地域全体に影響を及ぼし、労働力の流出や土地需要の高まりを通じて国家財政や社会構造にも変化をもたらした。

対英関係とボーア戦争

オレンジ自由国は隣国トランスヴァール共和国と結び、両ボーア共和国としてイギリス帝国と向き合った。1880年代以降、イギリスは内陸の鉱山資源確保と南北一体の帝国ルート構想を進める中でボーア共和国への圧力を強めた。やがてトランスヴァールの鉱山支配をめぐる対立が深まり、1899年に第二次ボーア戦争(ズールー戦争とは別の紛争)へと発展すると、オレンジ自由国も同盟義務にもとづきイギリスに宣戦布告した。

戦争初期、ボーア軍は機動力を活かして優勢を保ったが、圧倒的物量を動員したイギリス軍の反攻により次第に占領を受ける。ゲリラ戦に転じたボーア側に対し、イギリスは焦土作戦と住民収容所政策を導入し、農村社会は壊滅的打撃を受けた。1902年の講和により、オレンジ自由国はイギリス領オレンジ川植民地に再編され、国としての独立は終焉した。

その後の位置づけ

オレンジ川植民地は1910年に南アフリカ連邦の一州となり、20世紀の南アフリカ史の中でアフリカーナー民族主義の重要な拠点として位置づけられた。のちに「自由州」と呼ばれる地域は、アフリカーナー支配政党が政権を握る土台の一部となり、人種隔離政策を含む国家体制形成に影響を与えた。現在も、オレンジ自由国の経験は、ボーア社会の国家建設と帝国主義への抵抗、さらにはその内部における人種・階級秩序を考察するうえで欠かせない事例とみなされている。