インパール戦
インパール戦(インパール作戦)とは、第二次世界大戦中の1944年(昭和19年)3月に日本陸軍によって開始された、ビルマ(現ミャンマー)からインド北東部の都市インパールの攻略を目指した軍事作戦のことである。正式な作戦名は「ウ号作戦」と呼ばれ、連合軍の援蒋ルート(中国への補給路)を遮断し、インド独立運動を触発して英国による植民地支配を揺るがすことを戦略的な目標としていた。しかし、峻険なアラカン山脈を越える無謀な兵站計画や、現地司令官の強引な指導体制、さらに雨季の到来による疫病と飢餓が重なり、日本軍は歴史的な大敗を喫した。このインパール戦は、その凄惨な被害状況と作戦立案の杜撰さから、現在では「史上最悪の作戦」の一つとして日本軍の無責任な組織構造の象徴として語り継がれている。
作戦の背景と目的
太平洋戦争の戦局が悪化する中、日本軍は連合国軍によるビルマ奪還阻止と、重慶の国民政府への物資輸送路である援蒋ルートの遮断を急務としていた。当初、第15軍司令官の牟田口廉也中将は、インド侵攻に対して消極的であったが、1943年にチャンドラ・ボース率いる自由インド仮政府が樹立されると、政治的な思惑も相まって積極論へと転じた。インパール戦の主目的は、英印軍の拠点であるインパールを占領し、その背後にあるアッサム地方の鉄道を制圧することで、連合軍の航空輸送網を断絶させることにあった。また、インド国民軍(INA)と共にインド領内へ進攻することで、インド国内の抗英独立運動を激化させ、英国を戦争から脱落させるという遠大な構想も含まれていた。
作戦計画の無謀性と「ジンギスカン作戦」
インパール戦の計画段階において、最も懸念されたのが補給の問題であった。インパールへ到達するためには、標高2000メートル級の山々が連なるアラカン山脈を越え、大河チンドウィン川を渡河する必要があった。これに対し、牟田口司令官は「ジンギスカン作戦」と称し、現地で調達した牛や馬に荷物を運ばせ、最後にはその家畜を食料とするという、極めて楽観的な計画を立案した。しかし、重火器の輸送を軽視し、携行弾薬や食料を極限まで削ったこの計画は、多くの参謀や部下司令官たちから強い反対を受けた。それにもかかわらず、大本営や総軍は牟田口の強引な主張を追認し、精神論を優先した作戦実施が決定されたのである。
戦闘の推移と包囲網
1944年3月、第15、第31、第33師団からなる約9万人の将兵がインパール戦を開始した。初期の進撃は順調であり、第31師団は交通の要衝コヒマを一時占領するなど、英印軍を圧倒した。しかし、連合軍は空中補給による「円陣防御」を展開し、拠点を死守しながら圧倒的な火力で日本軍を迎え撃った。制空権を完全に喪失していた日本軍は、地上からの重火器や弾薬の補給が途絶え、当初予定していた3週間という作戦期間を大幅に過ぎてもインパールを陥落させることができなかった。インパール戦は、近代化された連合軍の物量に対し、精神力と銃剣突撃で挑むという無謀な消耗戦へと変貌していった。
白骨街道と凄惨な撤退戦
作戦の失敗が決定的となった1944年7月、ようやく退却命令が出されたが、この時期のビルマは猛烈な豪雨に見舞われる雨季の真っ只中にあった。飢えと疲労に苦しむ兵士たちは、マラリアや赤痢などの疫病に侵され、退却路には膨大な数の死体が積み重なった。この退却路は、兵士の遺骨が道しるべのように続いたことから「白骨街道」と呼ばれるようになった。インパール戦に参加した約9万人のうち、戦死・病死者は約3万から5万人に及び、生還した者も多くが心身に深い傷を負った。一方で、この惨劇の責任者である将官たちの多くは、現場の惨状から目を背け、自決することもなく戦後まで生き延びたことが、後に大きな批判の対象となった。
失敗の要因と組織的欠陥
| 要因項目 | 内容の詳細 |
|---|---|
| 兵站(ロジスティクス)の軽視 | 地形や天候を無視し、現地調達を前提とした非現実的な補給計画を強行した。 |
| 情報・技術力の格差 | 英軍の「空中の補給路」に対抗できず、制空権を奪われたことで一方的な攻撃に晒された。 |
| 指揮統制の崩壊 | 司令官と師団長たちの対立が激化し、独断での撤退や抗命事件(佐藤師団長など)が発生した。 |
| 精神論への固執 | 物資の不足を「大和魂」などの精神的な要素で補おうとする非科学的な指導が横行した。 |
戦後の評価と影響
インパール戦の敗北は、ビルマ方面の防衛線を崩壊させ、その後の日本軍の壊滅的な敗北を決定づけた。ビルマ戦線全体の崩壊を招いたこの失策は、戦後の日本軍事史研究において、組織の硬直化と忖度、無責任な意思決定プロセスを分析する上での最良のケーススタディとなっている。また、ガダルカナル戦と並び、補給を無視した作戦がいかに悲劇的な結末を招くかを示す教訓として、現代の経営学や組織論の分野でも引用されることが多い。インパール戦の犠牲者を悼む声は今なお絶えず、現地ミャンマーやインドのコヒマには慰霊碑が建立され、悲劇の歴史を伝えている。
日本陸軍とインパール戦
インパール戦における失敗の根底には、当時の陸軍が抱えていた深刻な組織病理があった。上位組織の意向を過度に推測し、論理的な反対意見を封殺する風土は、数多くの「特攻」的な無謀な戦術を生む土壌となった。作戦の中止を進言した部下に対し、牟田口司令官が激昂したエピソードは有名であるが、これは単なる個人の資質の問題ではなく、失敗を認められない硬直した組織構造の産物であった。インパール戦は、日本軍が近代戦の現実に適応できず、過去の成功体験(日露戦争など)に基づいた精神主義に埋没していった過程を象徴する出来事であったと言える。