イラン=イラク戦争|中東を揺るがした八年の消耗戦争

イラン=イラク戦争

イラン=イラク戦争は、1980年から1988年にかけてイラクイランの間で続いた大規模な国家間戦争である。国境線や水路の帰属をめぐる対立に、革命後の体制不安と地域覇権をめぐる思惑が重なり、短期決戦の見通しは早期に崩れ、長期の消耗戦へ移行した。前線では陣地戦が固定化し、後方では石油施設や海上輸送を標的とする攻撃が拡大し、周辺諸国と国際政治の利害が戦争の継続を複雑化させた。

背景

両国関係の緊張は、国境の画定、河川・運河の航行権、国境地帯の治安をめぐって蓄積していた。特にシャットゥルアラブ川(アラブ側呼称)周辺は、通商と軍事の両面で重要であり、条約による取り決めがあっても相互不信は残った。1979年のイスラム革命によってイランの政治秩序は大きく変化し、周辺国は革命の波及を警戒した。イラク側ではバース党体制の下で権力集中が進み、指導者サッダームフセインは国内統合と地域的影響力の拡大を意識したとされる。こうした構造要因が、国境紛争の再燃を戦争へと連結させる土台となった。

開戦と初期戦局

1980年9月、イラク軍は空爆と地上侵攻を組み合わせて攻勢を開始した。狙いは国境地帯の要衝を短期に制圧し、イラン側の混乱を利用して有利な講和へ持ち込むことにあったと解される。初期には都市・港湾をめぐる激しい戦闘が続き、補給線の確保と市街戦の消耗が両軍の進撃を鈍らせた。イランは体制の再編と動員を進め、正規軍に加えて革命防衛の組織を戦場に投入し、1982年前後から反攻を強めて戦線を押し戻していった。ここで決着が付かず、戦争は相互の領内深部を視野に入れた長期戦へ転じた。

消耗戦の深化

戦線が膠着すると、双方は人的資源と経済基盤の総動員へ向かい、前線の陣地戦と後方への打撃が並行して拡大した。地上戦では塹壕線と地雷原が形成され、攻勢は限定的な突破と反撃の反復となり、損耗が蓄積した。戦争の長期化は社会の統制、徴兵、物資配給、宣伝を強め、国内政治にも影響を与えた。

  • 前線の固定化により、局地戦の勝敗が戦争全体の趨勢に直結しにくくなった
  • 都市やインフラへの攻撃が増え、民間人の被害と避難が広がった
  • 化学兵器の使用が深刻な問題となり、戦後まで健康被害と社会的記憶を残した

海上交通と「タンカー戦争」

石油輸出に依存する両国にとって、港湾と海上輸送は戦略目標となった。1980年代半ば以降、ペルシャ湾の航路やタンカーが攻撃対象となり、保険料の高騰や輸送の不安定化が国際市場へ波及した。湾岸諸国は自国の安全保障と経済活動を守るため対応を迫られ、域外大国も航行の安全確保や同盟国支援を名目に関与を深めた。海上での衝突は、戦争が二国間の枠を超えて地域秩序の問題へ拡大したことを示している。

国際関係と外部支援

戦争は冷戦期の国際政治とも接続し、武器供与、資金援助、情報支援、外交工作が複層的に行われた。イラクはアラブ諸国から資金面の支援を受け、欧州や東側諸国を含む多様な供給源から装備を整えた。イランは革命後の孤立を背景に、制裁や禁輸の回避、第三国経由の調達を試み、周辺国との関係も揺れ動いた。国際社会では停戦仲介が繰り返され、最終的には国際連合の枠組みが停戦合意の基盤となった。外部支援は戦争継続の能力を高める一方、当事国の選択肢を狭め、妥協のタイミングを見えにくくした側面もあった。

終結と停戦

1988年、戦争疲弊が限界に近づく中で停戦が現実味を帯び、国連安保理決議598の枠組みに沿って受諾が進んだ。同年8月に停戦が発効し、戦闘は終息へ向かったが、捕虜問題や国境の細部、賠償や責任をめぐる政治的対立は長く尾を引いた。停戦は全面的勝利ではなく、継戦能力の低下と国際環境の変化が折り重なって到達した妥結として位置付けられる。

影響

人的被害は極めて大きく、負傷者や難民、社会資本の損壊は戦後復興を長期化させた。イラクは戦費調達による債務を抱え、戦後の外交・安全保障上の選択に制約が生まれた。イランでは戦争経験が体制の正当化や社会動員の記憶として組み込まれ、政治文化に影響を残した。地域全体では安全保障の不確実性が増し、湾岸の軍事的プレゼンスや同盟関係の再編を促した。さらに、化学兵器使用の問題は国際規範と戦争犯罪の議論を強め、戦争の倫理と法の課題を突き付けた。

史料上の争点

戦争目的の評価は、領土・航行権の争いを中心に据える見方と、革命の波及や体制防衛、地域覇権の競合を重視する見方に分かれ得る。死傷者数や戦果の算定は当事国の公表姿勢や統計基準の違いに左右され、研究では複数資料の突合が求められる。戦争の推移は軍事作戦だけでなく、資金調達、兵站、外交、情報戦が一体となって決まったため、単一要因で説明しにくい。したがって、国内政治と国際政治を連結し、長期戦を可能にした制度と経済のメカニズムを丁寧に追うことが、歴史叙述の精度を左右する。なお指導層の意思決定をめぐっては、革命指導者ホメイニーを含む政治エリートの認識と軍の現場判断のずれが、戦争の拡大と停戦の遅れに影響した可能性も指摘される。