アーサー・デンプスター
アーサー・デンプスターは、1886年にカナダのトロントで生まれ、1950年に没したカナダ系アメリカ人の物理学者である。質量分析計の設計者として知られ、1918年に当時最も精密な装置を完成させたことで、この分野の基礎理論と構造を確立した人物として評価される。1935年には天然ウラン中に存在する軽い同位体を検出し、後に核分裂の中心となるウラン235の存在を明らかにした。この発見は、原子核物理学の発展のみならず、第二次世界大戦下の核兵器開発計画にも直結する重要な足がかりとなった。
生い立ちとドイツ留学
デンプスターはトロント大学に進学し、1909年に学士号、翌1910年に修士号を取得した。その後ドイツへ渡り、ゲッティンゲンおよびミュンヘンで学んだのち、ヴュルツブルク大学でヴィルヘルム・ヴィーンのもとに二年間在籍した。当時のヨーロッパでは原子の内部構造をめぐる研究が急速に進展しており、負の電荷を帯びる電子や正の電荷を帯びる陽子の存在が次第に明確になりつつあった時代であった。荷電粒子を電場や磁場によって選別し、その飛跡から質量や電荷を割り出すという発想は、この時期に各地の研究室で試みられていた陽極線の研究にも通じるものであり、デンプスターが後年取り組む研究の土台はこの留学期にすでに芽生えていたといえる。第一次世界大戦の勃発とともに帰国の道を断たれた彼は、1914年にアメリカへ渡り、シカゴ大学で研究を続けることになった。1916年には同大学で物理学の博士号を取得し、翌年から教員として教壇に立ち、1927年には教授へと昇任している。
質量分析計の開発
シカゴ大学在籍中の1918年、デンプスターは自ら設計した装置によって、当時としては極めて高精度な質量分析を実現した。従来の装置に比べておよそ百倍の精度を持つとされ、磁場によってイオンを収束させる方式は、今日の質量分析計にも通じる基本設計として位置づけられている。装置内部は真空に保たれ、試料から生じたイオンが電場と磁場の作用によって質量ごとに分離される仕組みであった。試料はまず熱電子放出などの手法で気化・イオン化され、加速された荷電粒子が扇形の磁場を通過する際に、質量電荷比に応じて軌道の曲がり方が変化することを利用して分離が行われる。この方式は速度の異なるイオン群を一点に収束させる性質を持ち、測定の分解能を大きく高めるものであった。当初は写真乾板によって記録されていたイオンの検出方式は、1930年代前半にファラデーカップを用いた電気的検出へと置き換えられ、より定量的な測定が可能となった。
同位体研究の広がり
改良された装置を用いて、デンプスターは十七の元素にわたる三十三種の天然同位体を発見したとされる。同位体とは、原子番号すなわち原子核内の陽子数が等しく、中性子の数のみが異なる原子を指す概念であり、この違いは化学的性質にはほとんど影響しないものの、質量にはわずかな差を生む。デンプスターの研究は、こうした微小な質量差を実験的に検出する技術を大きく前進させ、周期表上の各元素が単一の原子種から成るものではないという理解を裏付ける成果となった。
ウラン235の発見
1935年、デンプスターは天然のウラン試料を分析する過程で、質量数238の主成分に加えて、質量数235に相当する微弱な信号を検出した。この軽い同位体は天然ウランのうちおよそ0.7パーセントを占めるにすぎない希少な成分であったが、後にニールス・ボーアらによって中性子の吸収により連鎖的な核分裂を起こしやすい性質を持つことが理論的に示された。この成果は、原子核のわずかな質量差を精密に測定する技術があってこそ得られたものであり、原子半径や核構造に関する研究とは異なる角度から、原子核内部の性質解明に貢献するものであった。
マンハッタン計画への参加
1943年から1946年にかけて、デンプスターはシカゴ大学冶金研究所の主任物理学者を務めた。同研究所はマンハッタン計画の一翼を担う組織であり、原子爆弾の製造に必要な材料の研究、とりわけプルトニウム生成に関わる基礎的な核物理研究が進められていた。デンプスター自身が発見したウラン235の存在は、この計画の科学的出発点の一つとなったといえる。天然に微量しか存在しない核分裂性物質をいかに濃縮し、あるいは原子炉を通じて別の核分裂性物質へ転換するかという課題は、当時の物理学者・化学者・工学者が総力を挙げて取り組んだ問題であり、デンプスターの測定技術はその出発点における確認作業を支える役割を果たした。1946年には研究拠点をアルゴンヌ国立研究所へ移し、部門責任者として核物理研究を続けた。
晩年と評価
デンプスターは1932年にアメリカ哲学協会の会員に選出され、1937年にはアメリカ科学アカデミーの会員にも名を連ねた。1936年にはケネス・ベインブリッジやヨーゼフ・マタウフらとともに、二重収束型の質量分析器を開発し、測定精度をさらに高めている。また、電子ビームを用いたイオン化技術の発展にも影響を与え、後続の装置設計に理論的基盤を提供した点も見逃せない。正電荷を帯びた粒子線、いわゆる陽極線に関する研究の権威としても知られ、生涯にわたって一貫して荷電粒子の挙動解明に取り組んだ研究者であった。1950年3月11日、休暇先のフロリダ州スチュアートで心筋梗塞のため63歳で急逝したが、その業績は質量分析という分野そのものの礎として、現在に至るまで参照され続けている。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1886年 | カナダ・トロントに生まれる |
| 1909年 | トロント大学にて学士号を取得 |
| 1916年 | シカゴ大学にて博士号を取得 |
| 1918年 | 初の近代的な質量分析計を完成 |
| 1935年 | ウラン235を発見 |
| 1943年 | 冶金研究所の主任物理学者に就任 |
| 1950年 | フロリダにて死去 |
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