アメリカのカンボジア侵攻
アメリカのカンボジア侵攻とは、1970年にアメリカ軍と南ベトナム軍がカンボジア領内へ越境し、北ベトナム軍や南ベトナム解放民族戦線の拠点と補給路を打撃した軍事行動を指す呼称である。ベトナム戦争の戦域が国境を越えて拡大した象徴的出来事であり、軍事面だけでなく、反戦運動の激化やカンボジア国内の政治的動揺とも結びつき、戦後の地域秩序にも長い影響を残したのである。
位置づけと呼称
一般にアメリカのカンボジア侵攻は、1970年春から初夏にかけて行われた「カンボジア作戦」を中心に語られる。もっとも、越境の前提として1969年以降に進められた秘密爆撃が存在し、地上侵攻はそれら一連の政策の延長線上で理解されやすい。呼称に含まれる「侵攻」は政治的評価を帯びやすく、当事国の立場や国際法観により「越境作戦」「介入」「侵入」など多様な表現が用いられてきたのである。
背景
当時のカンボジアは中立を掲げつつも、国境地帯に北ベトナム側の部隊が拠点を形成し、兵站や休整の空間として機能していたとされる。アメリカ側はこれを南ベトナムでの戦況悪化の要因とみなし、国境の「聖域」を解消する必要があると判断した。さらに、インドシナ全体が冷戦構造の中で注目され、米政権は撤兵の工程と同時に軍事的圧力を維持するという難題を抱えていたのである。
作戦の展開
秘密爆撃の先行
地上侵攻に先立ち、カンボジア領内の拠点を標的とする爆撃が秘密裏に進められた。作戦の秘匿性は、同盟国や国内世論への配慮と結びつき、のちに政策決定の正当性をめぐる議論を激化させた。こうした積み重ねの上で、1970年4月末、リチャード・ニクソン政権は越境作戦を公表し、軍事行動の性格が一気に可視化されたのである。
地上侵攻と撤収
1970年5月以降、南ベトナム軍を主力としつつアメリカ軍も支援・参加する形で国境地帯への進入が行われ、補給基地の破壊や物資の押収が報じられた。作戦は恒久占領ではなく期限付きの攻勢として設計され、短期間での撤収が打ち出されたが、越境それ自体が戦争の拡大として受け止められた点に特徴がある。政策立案にはヘンリー・キッシンジャーらの影響も指摘され、戦争終結戦略と軍事行動の整合性が争点となったのである。
国際法と外交の論点
アメリカのカンボジア侵攻は、主権国家の領域に対する軍事力行使である以上、国際法上の正当化が問われた。アメリカ側は国境越しの攻撃を抑止する自衛的性格や、現地の政変後に成立した政権との関係を根拠に挙げる見方があったが、第三国領内での軍事行動は国連憲章体制と緊張関係に立ちやすい。また、地域外交の面でも、東南アジア諸国の安全保障観や、インドシナ和平交渉への影響が論じられたのである。
米国内政治と反戦運動
越境作戦の公表は、アメリカ国内で強い反発を招いた。大学を中心に抗議行動が拡大し、治安当局との衝突や死傷事件を通じて社会的亀裂が可視化された。政策の狙いが「戦争を早く終わらせるための限定行動」と説明される一方で、実際には戦域の拡張と受け止められ、議会による戦争権限の統制強化へも連動した。こうした国内政治の揺れは、アメリカのカンボジア侵攻を軍事史だけでなく政治史の問題として定着させたのである。
カンボジア側への影響
カンボジアでは政変により権力構造が変化し、内戦が深刻化する局面と重なった。越境戦闘と空爆、避難民の増加は行政統治をさらに困難にし、武装勢力の動員や正統性の争いを加速させたとされる。とりわけロン・ノル政権の不安定化と、農村部での反政府感情の増幅は、クメール・ルージュの伸長を説明する要素としてしばしば取り上げられるのである。
歴史的評価
アメリカのカンボジア侵攻の評価は、軍事的成果と政治的代償の双方を軸に形成されてきた。短期的には補給拠点への打撃や物資押収などが喧伝されたが、長期的には戦争の正当性、意思決定の透明性、周辺国の国家崩壊リスクといった課題が強調されやすい。また、インドシナの戦争終結過程やパリ和平協定前後の戦略環境を理解する上で、越境作戦が果たした役割は無視できず、国境という枠組みが戦争の現実に追いつかない局面を示した事例として位置づけられるのである。