アケメネス朝ペルシア

アケメネス朝(アケメネス朝ペルシア)

アケメネス朝(前550~前330)はアッシリアの崩壊により分裂した古代オリエントの国々(リディアエジプト新バビロニアメディア)を再度統一し、世界帝国を築いた。アケメネス朝ペルシアは、イラン高原南西部のファールス地方にいたインド=ヨーロッパ系のイラン人(ペルシア人)がたてた国で、ペルシアの名はこの地方名に由来する。

ペルシア

ペルシアは西アジアのイラン高原を中心とする地域である。ペルシアと呼ばれる以前はイランと呼ばれ、初期の住民の自称アールヤ(高貴な人びと)に由来する。メソポタミア地方や中央アジアが含まれるイラン文明圏を築いた。ペルシアという名称は、アケメネス朝がおこったイラン高原南西部の地域名パールス(パルサ)が、ラテン語化した。

独立

ペルシア人は同系(イラン系)のメディアの支配下におかれていた。アケメネス家のキュロス2世(位前559~前530)はこれを不服として、前550年、メディアを倒して独立を果たした。

オリエントの統一

キュロス2世は独立を成し遂げた後、前546年にリディア、前538年に新バビロニアを征服し、キュロス2世の子であるカンビセス2世(位前529~前522)は前525年にエジプトの征服を成し遂げオリエントは統一を果たした。

ダレイオス(ダリウス)1世

第3代のダレイオス(ダリウス)1世(位前522~前486)は、インダス川(東)からエーゲ海北岸(西)、エジプト(南)までに渡る大帝国を築き上げた。

ダレイオス1世は全国を20余りの州に分け、各州に知事(サトラップ)をおいて統治する。各州にはそれぞれの伝統や文化を尊重し、自治を認めた。

「王の目」「王の耳」

州にはある程度の自治を認めたものの、「王の目」「王の耳」と呼ばれる王直属の監察官を配置して監視活動を行い、中央集権を維持した。

王の道

王の道は、ダレイオス1世が建設した長距離の国道である。もっとも有名なスサからサルデスにいたる約2500kmの王道には111もの宿駅が設けられるなど、駅伝制が整備された。都と地方が直結され、経済・軍事・治安維持に大きく役立った。

スサ

スサは、イラン西南部の都市である。アケメネス朝の首都で、行政の中心であった。

経済政策

経済政策に対しては、金・銀貨を鋳造し、税制を整える一方で、海上ではフェニキア人、陸上ではアラム人による商取り引きの便をはかっている。

ユダヤ人の解放

新バビロニア王国が滅ぼされると、バビロンに捕らわれていたユダヤ人を解放した。かっての統治者アッシリアが圧政をひき滅んだのを踏まえ、服属した異民族には寛大な政策をとった。

ペルシア戦争

ダレイオス1世は、ギリシアの諸ポリスを相手とするペルシア戦争を起こした。前後3回にわたる戦争であったが、その子クセルクセス1世(位前486~前465)のとき敗北した。。

滅亡

アレクサンドロス大王の遠征軍に敗れたダレイオス3世(位前336~前330)の死をもって、アケメネス朝は滅亡した。

公用語

ペルシア人は、シュメール人以来のメソポタミア文明の伝統をうけつぎ、領内の諸民族の文化を統合しようとした。そのため言語政策も多様をもち、ペルシア語を表記するためには、楔形文字を表音化して用いるペルシア文字を工夫した。公用語としては、公用語としてはペルシア語・エラム語・バビロニア語・アッシリア語・アラム語(アラム語は国際商業語)などが採用され、文字には楔形文字を表音化したペルシア文字が用いられた。

ペルシア文字

ペルシア文字とは、アケメネス朝時代、ペルシア語を表すために使用された楔形文字である。しかしアケメネス朝の滅亡後の西アジアではアラム文字が主流となり、楔形文字は使用されなくなった。

ゾロアスター教

ゾロアスター教のは、メディア生まれの宗教改革者ゾロアスター(前7世紀後半~前6世紀前半)が、古代イランの二元論的な民族宗教を救済宗教へと高めた。

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