『改造』|大正・昭和期の論壇をリードした総合雑誌

『改造』

『改造』(かいぞう)は、大正時代から昭和時代にかけて発行された日本の総合雑誌である。1919年(大正8年)に山本実彦によって創刊された改造社を版元とし、労働問題や社会問題などを扱う進歩的な論調で一世を風靡した。「大正デモクラシー」と呼ばれる自由主義的、民主主義的な機運を背景に成長し、同時代の代表的な総合雑誌である『中央公論』と並んで知識人層から強い支持を集めた。社会科学分野における翻訳記事や評論にとどまらず、国内外の第一線で活躍する作家の文学作品を多数掲載したことでも知られている。第二次世界大戦中には厳しい言論統制の標的となり、戦後の復刊を経たのちに1955年(昭和30年)に廃刊となったが、日本近代史および近代文学史において果たした役割は極めて大きい。

創刊の背景と初期の展開

1919年(大正8年)に創刊された背景には、第一次世界大戦後の国際的な民主主義の潮流と、国内における労働運動や普選運動の高まりが密接に関わっている。発行人である山本実彦は、政治や社会の急激な変革期にあって、時代が直面する諸課題を解決し、新しい日本を構築するという理念を込めて「改造」を雑誌名に冠した。初期の紙面では、社会主義やマルクス主義といった当時の新鋭的な思想が積極的に紹介され、マルクスやレーニンの著作の翻訳なども掲載された。また、賀川豊彦によるスラム街のルポルタージュや、労働運動の指導者による論文など、底辺に生きる人々の実態や社会構造の矛盾を鋭く突く記事が多数掲載された。言論の自由が法的に制限されていた時代にあって、進歩的知識人や社会運動家の重要な発表舞台となった反面、たびたび当局からの発禁処分や削除命令を受けるなど、国家権力との間には常に激しい緊張関係が存在していた。しかし、こうした弾圧にも屈しない編集方針は、かえって青年層や知識人からの熱狂的な支持を集める要因となったのである。

海外知識人の招聘と紹介

本誌の際立った特徴の一つは、世界的な知識人を直接日本に招聘し、その最先端の思想を広く国内に紹介する「改造社講演会」を主催した点にある。1921年(大正10年)には、イギリスの哲学者であるラッセルを招聘し、日本国内の各地で講演会を成功させた。ラッセルの来日は、当時の日本の思想界に大きな反響を呼び起こし、社会主義と平和主義の理論的根拠として広く議論された。さらに翌1922年(大正11年)には、相対性理論で世界的な名声を博していた物理学者のアインシュタインを招聘した。アインシュタインの来日と講演は、日本国内に多大な学術的刺激を与えただけでなく、一般大衆をも巻き込む熱狂的なブームを巻き起こし、雑誌の売上部数を飛躍的に伸ばす要因ともなった。他にもマーガレット・サンガーなど、各分野の第一人者を招くことで、海外の最新の思想、科学、哲学、フェミニズムなどを同時代的に紹介する総合メディアとして機能し、日本の近代化と思想的成熟に計り知れない貢献を果たしたのである。

文学的功績と代表的な掲載作品

社会科学系や思想系の論文だけでなく、純文学の発表媒体としても非常に重要な地位を占めていた点が見逃せない。大正から昭和初期にかけて、日本の近代文学を代表する多くの文豪たちが本誌に寄稿し、数々の名作がここから誕生している。プロレタリア文学が隆盛を極めた時期には、小林多喜二や徳永直などの作品も掲載するなど、イデオロギーの枠にとらわれず、芸術派からプロレタリア派まで多様な立場の作家に対して広く門戸を開いていた。優れた批評眼を持つ編集者たちと作家との間に築かれた強固な信頼関係により、同時代の純文学を力強く牽引する存在となり、論壇と文壇の双方において揺るぎない文化的権威を確立していったのである。以下は本誌で発表された代表的な文学作品の一部である。

  • 芥川龍之介:『河童』『歯車』
  • 志賀直哉:『暗夜行路』(後編)
  • 谷崎潤一郎:『卍』『盲目物語』『細雪』(一部)
  • 小林多喜二:『蟹工船』(一部伏字で掲載)

言論弾圧と横浜事件による廃刊

昭和期に入り、満州事変から日中戦争へと至る過程で日本が軍国主義化への道を突き進むと、言論・出版への国家統制は劇的に強化された。進歩的かつ自由主義的な論調を堅持しようとした本誌は、内務省や特高警察、そして軍部からの強い監視と厳しい検閲の標的となった。太平洋戦争へと戦局が拡大・泥沼化するなかで、反戦的あるいは社会主義的な言論は完全に封殺され、雑誌の存続そのものが日増しに危ぶまれる事態へと陥った。そして1942年(昭和17年)から1943年(昭和18年)にかけて、日本の言論弾圧史に悪名高い「横浜事件」が発生する。これは、改造社の編集部員らが共産党の再建に関与し、反戦思想を流布したという警察による完全な捏造容疑で、次々と検挙・激しい拷問を受けるという凄惨な弾圧事件であった。この事件を決定的な契機として、1944年(昭和19年)に政府および情報局からの執拗な圧力により自発的廃業という形での解散に追い込まれ、四半世紀にわたる輝かしい歴史は強制的に幕を閉じることとなったのである。

戦後の復刊と終焉の経緯

第二次世界大戦の敗戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による民主化政策のもとで言論の自由が回復すると、多くの知識人やかつての読者からの強い要望を受け、1946年(昭和21年)に改造社は再建され、雑誌も待望の復刊を果たした。戦後の新時代に向けた言論空間の形成に再び寄与し、民主主義の定着に向けた活発な議論を展開しようと試みたものの、戦前のような圧倒的な影響力や部数を取り戻すことは極めて困難であった。戦後特有の急激なインフレーションによる深刻な経営難に加え、レッドパージを背景とする労働争議による社内の深刻な対立が運営を圧迫した。さらには、岩波書店が創刊した『世界』や、その他の新しい総合雑誌との激しい読者獲得競争に敗れる形となった。資金繰りの悪化が致命傷となり、最終的に1955年(昭和30年)の2月号をもって、惜しまれつつも長きにわたる歴史に終止符を打ち、完全な廃刊となった。こうして、大正デモクラシーの黎明期から戦後の復興期に至るまで、激動の日本近代史とともに歩み、知識人のオピニオンリーダーであり続けた総合雑誌は、その歴史的な使命を終えたのである。

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