『失われんとする一朝鮮建築のために』|光化門破壊を惜しみ朝鮮の美を説く

失われんとする一朝鮮建築のために

失われんとする一朝鮮建築のためには、日本の思想家であり民藝運動の創始者として知られる柳宗悦が、1922年(大正11年)に雑誌『改造』に発表した評論である。当時、日本の統治下にあった朝鮮のソウル(当時の京城)において、朝鮮王朝の正宮である景福宮の正門「光化門」が、朝鮮総督府庁舎の新築に伴い取り壊されようとしていた事態に対し、その文化的価値を世に問い、保存を強く訴えた文章として知られる。

執筆の歴史的背景と動機

1910年の韓国併合以降、日本朝鮮半島において植民地支配を強めていたが、その象徴的な事業の一つが景福宮の敷地内に巨大な石造建築である朝鮮総督府庁舎を建設することであった。この計画の過程で、宮殿の正門である光化門が視界を遮るという理由から破壊・撤去される方針が決定された。これに憤りを感じた柳宗悦は、政治的な対立を超えた芸術的・人道的な視点から、失われんとする一朝鮮建築のためにを執筆した。柳は、建築が単なる物質ではなく、民族の魂が宿る美術品であることを強調し、権力による文化の抹殺を鋭く批判したのである。

柳宗悦が説いた「朝鮮の美」

本作において、柳は独自の美学を展開しており、その後の民藝運動の萌芽を読み取ることができる。彼は朝鮮建築や陶磁器に共通する美を「悲哀の美」あるいは「線の美」と呼び、それを生み出した朝鮮民族の感性に深い敬意を表した。失われんとする一朝鮮建築のためにの中で、柳は光化門を擬人化し、あたかも死を目前にした友人に語りかけるような熱情的な文体を用いて、その美しさが失われることの損失を訴えている。これは、単なる文化財保護の主張にとどまらず、他民族の文化を尊重し、その固有の価値を認めるという普遍的な人道主義に基づいたものであった。

社会的反響と保存への道

失われんとする一朝鮮建築のためにの発表は、当時の知識人や世論に大きな衝撃を与えた。柳の魂を揺さぶるような筆致は、それまで植民地経営の効率性のみを重視していた行政側や一般市民の意識を変え、大規模な反対運動を巻き起こす一助となった。この反響を受けて、朝鮮総督府は当初の完全解体方針を撤回せざるを得なくなり、光化門は景福宮の東側へと移築されることで、かろうじて破壊を免れたのである。この出来事は、個人の言説が国家の強権的な政策を動かした稀有な事例として、日本朝鮮の近代関係史においても重要な位置を占めている。

現代における意義と評価

現在においても、失われんとする一朝鮮建築のためには、異文化理解と文化遺産保護の重要性を説く古典的名著として読み継がれている。柳の視点は、単なる感傷主義ではなく、文化の多様性を認め、互いのアイデンティティを尊重するという共生の思想へとつながるものである。また、柳はこの評論の後、ソウルに「朝鮮民族美術館」を設立し、名もなき職人たちが作った工芸品の美を再発見する活動を本格化させた。本作は、彼の生涯をかけた歴史的な探求の出発点であり、現在でも日韓の文化交流を考える上での不可欠な文献となっている。

作品詳細データ

項目 詳細
著者 柳宗悦
初出雑誌 『改造』1922年9月号
対象建築 景福宮 光化門
主なテーマ 朝鮮の美、文化財保護、反植民地主義的文化論

本作における主要な論点

  • 光化門を「美しい東洋の生命」として象徴的に描いた点
  • 建築の破壊を、一つの民族の精神を傷つける行為として断罪した点
  • 権力や武力よりも、美や愛が上位にあるという信念の表明
  • 朝鮮の芸術に見られる「静寂」と「悲哀」の特質の定義

柳宗悦のその後の活動への影響

この評論で示した情熱は、1924年の「朝鮮民族美術館」開館という具体的な形となって結実した。彼は政治が分断するものを、芸術が繋ぎ止めると信じて疑わなかった。失われんとする一朝鮮建築のためにで見せた態度は、のちに日本国内の地方文化や手工芸に目を向ける「民藝運動」へと昇華されていくことになる。