黒船来航
鎖国を続ける幕府に対して、アメリカのペリーが黒船にのって開国を要求、和親条約を締結した。これに続いてロシアのプチャーチンを始め、イギリス、オランダとも和親条約を締結する。なお、諸外国との通商条約の基準となった日米通商条約の交渉には、幕府側からは林大学頭復斎が当たった。これらの通商条約は不平等条約ではあったが、当時の日本の国力と植民地支配をすすめる欧米諸国の背景の中、最大限、外交力が実った結果だといえる。
目次
- 異国船打払令
- 黒船来航の背景
- 異国船打払令の緩和
- 黒船見物
- オランダの開国要求
- アメリカ東インド艦隊司令長官ビッドルの要求
- 1度目のペリー来航
- ペリーの来航の目的
- アメリカ・フィルモア大統領の国書の受理
- 坂本龍馬の護衛
- ロシアのプチャーチンの来航
- ロシアのプチャーチンの再来日
- ペリー、二度目の来航
- 日米和親条約
- 日露和親条約
- 日英和親条約締結
- 日蘭和親条約締結
- 安政の五カ国条約
- 安政の五カ国条約に勅許
- 関税自主権の喪失
異国船打払令
1808年、イギリスの軍艦がオランダ船を追って長崎湾内に侵入したフェートン号事件などに対する措置として、幕府は1825年、異国船打払令し、清国とオランダ以外の外国船を撃退することを命じた。
黒船来航の背景
18世紀後半、イギリスで始まった産業革命は、欧米へと広がっていきました。工業生産力と軍事力を蓄えた欧米列強は、原材料の供給と市場の拡大を求め、アジアへの植民地支配を本格的に進めていく。1840年、イギリスと清国間でアヘンの密売をめぐり、アヘン戦争が起こったが、ただちに清国が敗北した。不平等条約である南京条約を締結し、香港の割譲と、上海、広東など五港が行われた。
異国船打払令の緩和
アヘン戦争による清の敗北は日本に衝撃を与え、かねてから求められていた老中の水野忠邦は異国船打払令に緩和し、天保の新水給与令を発令した。漂着した外国船には食料品や燃料などを与えることになる。
黒船見物
1854年、アメリカの軍艦は江戸湾に約3ヶ月停泊したが、茶店の前に「黒船見物無用」という立て看板が立つなど、庶民にとっては好奇心の対象であった。
オランダの開国要求
これを受け、唯一交流があったオランダは、国王ウィレム二世の親書を持参し、将軍家慶に開国を勧告するが、幕府は、鎖国は「祖法」としてこの勧告を拒否した。
アメリカ東インド艦隊司令長官ビッドルの要求
捕鯨船の燃料と食料の補給地を作るため開国要求を望んでいたアメリカは日本の開国を要求する。1846年、アメリカ東インド艦隊司令長官ビッドルは相模国浦賀(現・横須賀市)に来航し、通商を要求するが、幕府は拒否拒否した。幕府は鎖国を理由にこれを拒絶しました。その後、メキシコや清国との貿易の拡大に従い、給油地点としての日本の開国はより重要となる。
1度目のペリー来航
1853年6月3日、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーは旗艦サスケハナ号を始め4隻の黒船とともに浦賀に来航した。城ヶ島の漁師の通報によって黒船来航を伝えられた浦賀奉行所では、与力中島三郎助(よりきなかじまさぶろうのすけ)が、オランダ通詞(通訳)堀達之助(ほりたつのすけ)をともなってアメリカ艦隊に向かった。交渉ではペリーが日本の高官との面会を求めたが、中島は「日本の国法」を理由に拒否するが、ペリーは大統領からの直接命令であることを理由に、さらに拒否する。加えて、中島は外国との交渉窓口は長崎であり、浦賀では交渉できないことを伝えるものの、ペリーは応じなかった。6月4日中島に代わって与力香山栄左衛門が交渉に当たる。
ペリーの来航の目的
ペリーは、捕鯨船の燃料と食料の補給地を作る目的で日本に来航する。当時の捕鯨の蒸気船は、1回の給炭で1週間しか航行できず、太平洋の航行のためには「給炭基地」として、日本が必要であった。
アメリカ・フィルモア大統領の国書の受理
交渉は難航したが、1853年6月6日、ペリーは江戸幕府を威嚇するため、アメリカ軍艦ミシシッピー号を江戸湾の奥に進行させる。与力香山栄左衛門の抗議により引き返したが、この間、江戸幕府はアメリカの軍事力に圧倒的な劣勢を認め、フィルモア大統領の国書を受理する。ペリーは浦賀からの撤退を決定した。
坂本龍馬の護衛
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1853年6月、ペリー艦隊4隻が江戸湾に侵入してきた。黒船来航に備えて、幕府は警備を敷いたが、主に品川や芝に藩邸を持つ武士たちが警備をしたが、そのなかには土佐藩の坂本龍馬もいた。坂本龍馬は「異国の船と戦って、異人の首をいくつか手土産に持って帰ります」と父親に手紙を書いている。坂本龍馬は黒船の威嚇射撃を目の当たりにした。
ロシアのプチャーチンの来航
1853年7月18日、ペリーに遅れをとったロシア使節プチャーチンが4隻の軍艦を率いて長崎に来航。プチャーチンは国書の受理と国境の確定を要求した。幕府は衝突を回避するため、同年8月3日に国書の受理を認めた一方、日本を去るよう命じた。
ロシアのプチャーチンの再来日
1853年12月5日、プチャーチン率いる4隻の軍艦が長崎に再来。プチャーチンは江戸に赴くことを告げたが、長崎奉行は江戸から使者が来ることを伝え、長崎に滞在することを要請。同年12月14日、江戸から西丸留守居の筒井政憲(つついまさのり)、勘定奉行の川路聖謨(かわじとしあきら)らが到着するとプチャーチンを長崎西役所に招き、国書の返書を渡した。数日間にわたり筒井、川路らとロシア使節とのあいだで国境、貿易、開港などについて質疑が交わされたが、川路はロシアの要求をことごとく拒否した。その後、ロシア側はさらに国境の確定に関する草案を提出したが、川路、筒井らはこれらの案も拒絶し、プチャーチンの提案が受け入れられることはなかった。プチャーチンは、筒井、川路らが条約締結のための権限がないことを理由に、交渉は無意味として帰国した。
ペリー、二度目の来航
1854年1月9日、アメリカのペリーがロシアに先駆けての交渉を鑑みて、蒸気船3隻・帆船4隻を率いて再来日した。江戸幕府は、鎌倉か浦賀で対応することを提案したが、ペリーはこれを無視し、軍艦は江戸湾に進行し、軍事的な圧力を強めた。圧力を感じた幕府は、神奈川で対応することを了承した。開国への返答の引き延ばしをはかろうとした幕府に対し、ペリー艦隊は大砲を発射、軍事的圧力の威嚇を強めた。
日米和親条約
1854年2月、幕府は薪水給与と漂流民の救助を前提に、通商条約は締結しない、との方針でペリーとの会見に臨む。江戸幕府の交渉は林大学頭復斎があたった。ペリーは約500人の士官、水兵、海兵隊員を従えて江戸幕府の横浜応接所に現れ、その後、林大学頭復斎とペリーとのあいだで約1カ月にわたる交渉が行われた。1855年3月3日に、全2条からなる日米和親条約(神奈川条約)が締結された。アメリカの軍事的圧力に屈した形ではあるが、幕府の外交努力により、日本側にも一定の成果が認められる。1856年、ハリスとの間で日米修好通商条約を締結する。
日露和親条約
1854年8月30日、軍艦ディアナ号で箱館に来航したプチャーチンは新水、食料を積み、大坂へ向かうことを告げて出港した。1854年9月17日、ディアナ号は大坂湾に入港するが、京都・大阪の人々に動揺を与えたため、10月15日、場所を下田に移し、川路らは条約締結に向けた議論を重ねる。11月3日に日露会議が開かれたが、翌日に安政の大地震がおこり、ディアナ号も被害を受ける。しかし同年の冬には、下田の長楽寺にて日露和親条約九カ条が締結調印されることになった。この条約では、択捉島以南を日本、得撫島以北をロシア、樺太は両国雑居地と決定。また、ロシアにも最恵国待遇を認める条文が含まれていた。
日英和親条約締結
1854年8月8日、日米和親条約を準じてイギリスとのあいだに日英和親条約が締結された。内容は日米和親条約に準じてはいたが、通商事項を含んだ条文はなかったため、「日英協約」、「日英約条」とも呼ばれる。この条約において箱館と長崎の2港の開港が認められた。
日蘭和親条約締結
1856年12月23日には、オランダ商館長(カピタン) クルチウスとのあいだで日蘭和親条約が締結された。 オランダは幕府の軍艦購入や近代的海軍の伝習指導を受け入れるなどの外交努力を重ね、日米和親条約と同等の条約を締結した。
安政の五カ国条約
1855年6月19日、神奈川で日本とアメリカの間で日米修好通商条約が締結された。日米和親条約と進んだ内容になっており、幕府は朝廷を無視する形で推し進められた。関税自主権は認められず、治外法権を認めた不平等なものであった。後、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも似た通商条約を結ぶことになる。これらをまとめて安政の五カ国条約と呼ばれる。
安政の五カ国条約に勅許
1865年9月、英・仏・米・蘭の四カ国の公使は大坂城にいる将軍との会見のため、数隻の軍艦とともに京都近くの大坂湾に入港する。欧米列強は下関戦争の賠償金軽減の代償として、条約の勅許、兵庫の開港、輸入税の削減などを求めた。要求は期限つきで極めて強硬な姿勢であった。同年10月、幕府と朝廷のあいだで協議が行われ、孝明天皇は当初は否定的だったが、徳川慶喜は条約の勅許がなければ、4カ国の軍艦による京都砲撃もあり得ることを力説し、安政の五カ国条約に勅許がおりた。
関税自主権の喪失
1862年、幕府遣欧使節の竹内保徳(たけうちやすのり)はイギリスの外務大臣とロンドン覚書に調印した。このとき、幕府側の対応は、新潟・兵庫の開港、江戸・大坂の開市の五年間の延期を提案、そのため、輸入税の軽減を確約していた。しかし、列強は、四国連合艦隊の下関戦争に勝利すると、条約勅許はもちろん、兵庫・大坂の開港、税則改定を要求した。イギリス側は輸入税を一律5%とする強硬姿勢をとり、幕府は苦心したものの結局は改定に応じざるをえなかった。輸入税の軽減は外国製品の輸入に過度に有利で、幕府は関税自主権を失うことになった。