飛鳥文化|聖徳太子が夢見た仏教文化や宗教芸術

飛鳥文化

飛鳥文化とは、推古天皇から大化改新(645年)ころまでの飛鳥時代に栄えた文化である。百済や高句麗からの遣使を迎えており、朝鮮の影響を強く受けている。当時は隋が覇権を握っていたが、朝鮮から経由したため、南北朝時代の文化が色濃くでている。またペルシアやギリシアの文化をくむ。

目次

仏教の伝来

538年、『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺縁起』によれば、百済の聖明天皇が欽明天皇に仏像や経典などを送り仏教が始まった。蘇我馬子が物部守屋との政争に勝利すると、仏教が本格的に広まるようになり、これが飛鳥文化の思想的基盤となった。

仏教文化

聖徳太子の保護と奨励のもとに仏教が日本に取り入れられた。具体的には、594年の仏教興隆の詔や十七条憲法の「驚く三宝を敬え」に示されている。これは仏教によって国を治めるという隋の方針を模倣する者であり、朝鮮を経由して日本に流入した。

南北朝(六朝)文化

聖徳太子は隋の文化を輸入しようとし、小野妹子遣隋使として派遣した。しかしながら当時の時代性もあり、朝鮮から流入した南北朝(六朝)文化の影響のほうが大きい。百済とは歴史的に日本と密接な親交を送っており、高句麗もまた隋からの脅威にさらされて、日本と国交を持っていた。

観勤

602年、百済から僧である観勤(かんろく)が渡来して、天文・暦法などを伝えた。

慧窓

595年、高句麗から僧である慧窓が渡来して仏教を教えた。

曇徴

610年、僧である曇徴(どんちょう)が来て、紙、彩色・紙墨を伝えた。曇徴の描いたものは残っていない。

彫刻:北魏様式

北魏様式は左右相称で力強く男性的で厳しい表情が特徴であり、鞍作鳥(止利仏師)とその一派が採用した。飛鳥寺釈迦如来像(現存する日本最古の銅像)や法隆寺金堂釈迦三尊像、同夢殿の救世観音像が作られた。

彫刻:南梁様式

南梁様式は立体的で柔和、写実性に富むのが特徴である。法隆寺百済観音像、中宮寺半跏思惟像、広隆寺半跏思惟像(はんかしゆいぞう)が有名である。いずれも木造である。

寺院

当時、古墳にかわって寺院や仏像が豪族の権威を表すものになった。蘇我氏など、氏の権威を示す者で、氏寺とよばれる。蘇我氏は、飛鳥寺(法隆寺)を建立した。厩戸王は、難波(大阪府)の四天王寺や大和(奈良県)の斑鳩の法隆寺をはじめ7つの寺を建てた。秦河勝も京都太秦(うずまさ)に広隆寺を建て、624年には寺院の数は46を数えた。

法隆寺

法隆寺は五重塔・金堂や回廊の一部は、当時の建築様式をよく伝え、現存する世界最古の木造建築物である。ただし、670年に焼失し、現在の建物は再建されたものである。

法隆寺玉虫厨子

法隆寺玉虫厨子には須弥座絵や扉絵が描かれている。2mを超えている。

中宮寺天寿国繍帳

中宮寺天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)は聖徳太子の死後、妃の橘大郎女(おおいらつめ)が作製した。

三経義疏

三経義疏は聖徳太子による法華経、勝鬘経(しょうまん)、維摩経(ゆいま)の注釈書である。中国の註釈を取捨選択し、独自の解釈も加えている。

中宮寺天寿国編帳

中宮寺天寿国編帳は、当時の刺繍の絵画であり、忍冬唐草文様は、ササン朝ペルシアや古代ギリシアの影響がみられる