青年アイルランド党
青年アイルランド党は、19世紀半ばのアイルランドで登場した民族主義運動であり、ダニエル・オコンネルの穏健な廃同盟運動から分離して生まれた急進派の集団である。彼らは議会内合法主義だけではイギリスとの政治的統合を維持する大ブリテンおよびアイルランド連合王国の構造を変えられないと考え、必要に応じて武力も辞さない態度をとった。新聞「ザ・ネイション」を拠点に、歴史・文学・民謡を通じてアイルランド人としての自覚を喚起し、のちのアイルランド問題の展開に大きな影響を与えた民族主義勢力である。
成立の背景
青年アイルランド党が生まれた背景には、1801年のアイルランド併合によってアイルランド議会が廃止され、ロンドンの議会に統合されたという政治状況があった。カトリック解放を実現したオコンネルは、合法的な大衆運動を通じて連合法の廃止をめざしていたが、その路線はイギリスの支配とユニオン=ジャックに象徴される統合体制を揺るがすには弱いと若い世代には映った。1845年以降のジャガイモ飢饉で農民が大量に餓死・流出するなか、ロンドン政府の対応は冷淡と受け止められ、穏健な請願運動に失望した青年層が、より急進的な民族運動へと傾斜していったのである。
指導者とイデオロギー
青年アイルランド党の中心人物は、トマス・デイヴィス、チャールズ・ガヴァン・ダフィー、ジョン・ブレイク・ディロンら知識人・ジャーナリストであった。彼らは新聞「ザ・ネイション」を通じて、宗派を超えた「アイルランド国民」の形成を訴え、ゲール文化や歴史を称揚した。議会での改革努力を否定しない一方で、国家の独立や自治のためには最後の手段として武装蜂起も正当化し得るという姿勢をとり、オコンネルの絶対的非暴力主義と鋭く対立した。こうした文化的民族主義と政治的急進主義の結合は、のちのフェニアン運動やアイルランド共和主義の原型となった。
- 民族は宗派ではなく歴史と文化で形成されるというロマン主義的な国民観
- 文学・音楽・民話を通じた「アイルランドらしさ」の再発見
- イギリス国内改革だけでは植民地的関係は克服できないという認識
1848年蜂起と弾圧
1848年、ヨーロッパ各地で革命が勃発すると、青年アイルランド党もその波に触発され、アイルランドでの蜂起を模索した。政府はこれに先立って反乱防止法を整備し、指導者ジョン・ミッチェルらを逮捕・流刑に処したが、それでもウィリアム・スミス・オブライエンらはチッパラリー県バリナガリー周辺で武装蜂起を試みた。しかし蜂起は準備不足で支持も広がらず、短期間で鎮圧され、指導部は処刑もしくはオーストラリアへの流刑、アメリカへの亡命に追い込まれた。この失敗によって組織としての青年アイルランド党は壊滅し、運動は地下化・分散化していくことになる。
その後の影響と評価
青年アイルランド党は、現実の政治的成果こそ乏しかったが、アイルランド民族主義の思想的・文化的方向性を決定づけた点で重要である。蜂起の失敗後、多くの活動家がアメリカなどへ移民し、そこでアイルランド独立運動を支援する資金と世論の基盤を築いた。また彼らの文化運動は、のちのゲール復興運動やフェニアン団、さらにはシン・フェインの思想的源泉となった。19世紀後半になると、イギリス本国でもグラッドストンやディズレーリらがアイルランド自治問題に取り組み始めるが、その背景には、連合体制とアイルランド社会の対立が長期化したアイルランド問題として意識されるようになったことがあった。その意味で、青年アイルランド党は、失敗した蜂起を通じてアイルランド民族主義を国際的な政治テーマへ押し上げた先駆的存在と評価される。