長州藩外国船砲撃事件|長州藩による外国船への砲撃

長州藩外国船砲撃事件

長州藩外国船砲撃事件とは、長州藩によアメリカ、フランス、オランダなどの外国船に対する砲撃。1863年5月11日以降に起こった一連の砲撃と外国軍隊による報復攻撃を総じて長州藩外国船砲撃事件と呼ばれる。攘夷を決行を決断した幕府と、それに応じた長州藩の攘夷派は欧米の船を砲撃したが、欧米の圧倒的な軍事力の前に長州藩は甚大な被害を受ける。この後に下関戦争(四国艦隊下関砲撃事件)が起こり、日本の攘夷運動と開国に大きな影響を与えた。

長州藩の砲台

長州藩の砲台

目次

将軍の上洛

1863年3月、一四代将軍徳川家茂が和宮降嫁のときの約束であった、攘夷決行に対する返答をするため、229年ぶりに上洛した。京都では上洛する将軍に攘夷決行を確約させるため、尊攘派が到着を待ち、圧力をかけているような状況であった。
徳川家茂は、3月7日には御所に参内し、孝明天皇より「国事行為は事柄によって朝廷が関与する」旨の詔勅を受け取る。
3月11日、孝明天皇は攘夷祈願のため、将軍家茂、徳川慶喜、老中、公家らを随行させ京都の下鴨・上賀茂神社に行幸した。さらにその1カ月後に、今度は石清水八幡宮へも行幸した。
このような状況に追い込まれた幕府は攘夷決行の日を5月10日と返答した。

長州藩外国船砲撃事件

5月10日、長州藩の久坂玄瑞らの攘夷派は、軍艦庚申丸、癸亥丸により、下関海峡で暴風雨を避け退避していたアメリカ商船ペムブローク号を突如砲撃する。(長州藩外国船砲撃事件)。ペムブローク号は神奈川奉行から長崎奉行への手紙を所持していたことから、長州藩は砲撃を制止しましたが、久坂玄瑞らはこれを無視。その後、5月23日、フランスの軍艦キンシャン号、5月26日にはオランダの軍艦メデューサ号も続けて砲撃した。欧米各国は、これに激怒し、幕府に対し強く抗議した。

アメリカ・フランス両軍の報復

アメリカ軍艦は下関海峡を通過中に砲撃を受けるとこれに反撃し、亀山砲台を破壊した。さらに長州藩の船に多大な被害を与えた。6月にはフランスも長州藩に対し報復攻撃し、壇ノ浦の砲台を破壊する。これに対し、長州藩は対岸の小倉藩の田野浦に砲台を築き、なおも下関海峡を通過する船への攻撃を続けました。被害を受けた列強各国は、長州藩の処罰や損害賠償などを幕府に要求するが、交渉は長期化し、下関戦争(四国艦隊下関砲撃事件)が起こる。

下関戦争(四国艦隊下関砲撃事件)

長州藩の一連の攻撃に対し、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの四国連合艦隊が下関事件に報復攻撃した。艦隊からの砲撃だけではなく陸戦隊を上陸させて下関砲台などを占領した。この下関戦争(四国艦隊下関砲撃事件)をきっかけに長州藩では攘夷派の勢いがそがれ、開国派が台頭する事になる。