邪馬台国
三国時代、中国の歴史書である『三国志』の中の『魏志倭人伝』において記述されている、3世紀の日本にあった国である。倭国大乱とよばれる争いごとが続いたため、女性の統治者卑弥呼を王について日本を治めた。結果、女王卑弥呼は約30の小国家を従え、魏に朝貢したとされる。邪馬台国の場所については近畿説と九州説との間で、江戸時代からの論争が続いている。
倭国大乱
2世紀になると、後漢が衰えて、倭の楽浪郡への朝貢も途絶えがちになっと考えられ、現在、その情報は乏しい。『魏志倭人伝』によると、2世紀後半には倭国大乱と呼ばれる内乱が続いていたといえる。弥生時代後期にあたり、石器の使用が非常に減少する時期で、ちょうど鉄器がさかんに使われるようになったころで、中国大陸から輸入されたと思われる金属が発掘されている。鉄器の使用は、倭国にも階級を生み、内乱を激化させ、原始小国家を統一する連合政権を生み出していった。
卑弥呼
倭国大乱が続く中、争いを収めるため、女性を王におくことにした。それが女王・卑弥呼であるが、卑弥呼は巫女としての特性が強く、王に選ばれてからは、1000人の婢を従えて宮殿の奥深く住み、その言葉を伝える男子1人を除いて、ほとんど人に会わなかった。「鬼道に事へ、能く衆を惑はす」と記述されているように、呪術的・宗教的な支配者としての色彩が強く、呪術を通して統治を行った。そのため、実質的な政治は弟が行った、とも考えられる。
親魏倭王
卑弥呼は、29の小国をまとめあげ、伊都国に監督官(一大率)を駐在させ、各国に地方官を派遣していたようである。239年に卑弥呼は難升米を帯方郡を経て魏に派遣して朝貢し、魏から「親魏倭王」の称号と金印紫綬を受け、錦・絹・金・銅鏡などを与えられた。
卑弥呼の死後
狗奴国との戦争中に死に、径百余歩の墳墓がつくられ、奴婢百余人が殉葬された。卑弥呼の死後、男王を立てたがおさまらず、卑弥呼を女王としたところ、戦乱がしずまった。
邪馬台国の生活
邪馬台国、倭国の人々は入れ墨をし、簡単な貫頭衣を着て、おりにふれて占いを行っていたと考えられている。農耕・養蚕などを行い、市場があって交易が行われた。鉄器などの中国製の製品もそこに滞在した。大人と下戸という階級が存在し、下戸は大人に会うと、うずくまっておそれつつしんだ。
邪馬台国連合
『魏志』の伝える邪馬台国は、3世紀になって階級の分化が明確になり、必女的な女王の下で神権政治が行われたこと、王権が世襲されたこと、部族国家が統合され、邪馬台国連合ともいうべき地域的統一国家が形成されたことをよく示している。
邪馬台国はどこにあったのか
邪馬台国の位置については多説あるが、大きくは畿内説と北九州説とがあって、いまだ確定していない。『魏志倭人伝』によると、魏の国の使者が邪馬台国にやってきたとき、朝鮮の帯方郡から出発し、対馬国や一支国などを経由し北九州まで着いた。問題は、「南至邪馬台国 水行十日 陸行一月」と書かれており、記述通りに進むと九州南部のフィリピンあたりに着いてしまい、修正が必要となる。
九州説
北九州説によれば、「南至邪馬台国 水行十日 陸行一月」を「陸行一日」だと勘違いしてしまった解釈し、「水路だと十日あるいは陸路だと一日」と解釈すると北九州にあることをさす。その他、筑後山門(福岡県)、肥後菊池郡山門(熊本県)などが候補に挙がっている。
畿内説
畿内説では、「南至邪馬台国 水行十日 陸行一月」の方角に誤りがあり、「東至邪馬台国」と勘違いした結果なのでは無いかという説である。この解釈では畿内説にあたる。その場合、卑弥呼はヤマトトトヒモモソヒメノミコト(倭迹迹日百襲姫命)・ヤマトヒメノミコト(倭姫命)などに比定される。