豊臣秀吉(羽柴秀吉)
豊臣秀吉(1537年 – 1598年)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての日本の重要な政治家であり、軍人であった。彼は元々、尾張国の農民の家に生まれたが、後に織田信長の家臣として頭角を現し、最終的には日本の統一を成し遂げた。秀吉の業績は、彼がいかにして出世し、国家の頂点に立ったかを物語っている。
織田信長に仕えて
尾張に生まれた秀吉は、織田信長に仕えてしだいに才能を発揮し、信長の有力家臣に出世していった。1582(天正10)年に本能寺の変を知り、毛利氏と和睦し京に戻り、山崎の合戦で信長を倒した明智光秀を討った。翌年1583年には、信長の重臣であった柴田勝家を賤ケ岳の戦いで破って、信長の後継者の地位を確立した。同年、秀吉は、水陸交通にめぐまれた石山本願寺の跡地に大坂城を築き始めた。翌年1584年には、尾張の小牧・長久手の戦いで、徳川家康・織田信雄(信長の次男)と戦ったが、和睦に終わった。
全国統一
これを機に秀吉は、軍事力だけでなく、伝統的権威も利用しながら全国統一を目指すようになった。1585年、秀吉は朝廷から関白に任じられ、長宗我部元親をくだして四国を平定すると、翌年には太政大臣に任じられ、豊臣の姓を後陽成天皇から与えられた。関白になった秀吉は、天皇から日本全国の支配権をゆだねられたと称して、全国の戦国大名に停戦を命じ、その領国の確定を秀吉の裁定に任せることを強制した(惣無事令)。そしてこれに違反したことを理由に、1587年には九州の島津義久を征討して降伏させ、1590年には小田原の北条氏政・氏直父子を滅ぼした(氏政は切腹、氏直は高野山へ追放)。また伊達政宗ら東北地方の諸大名を服属させて、全国統一を完成した。
大名統制
秀吉の政権の特徴としては、天皇や朝廷の権威を利用して大名統制をしたことにある。京都に新築した聚楽第に後陽成天皇を迎えて歓待し、その機会に諸大名に天皇と秀吉への忠誠を誓わせている。 秀吉政権の経済的基盤は、蔵入地(直轄領・約220万石)にあり、直轄都市として、京都・大坂・堺・伏見・長崎などの重要都市を直轄し、豪商を統制下におき、政治・軍事などにその経済力を利用した。佐渡・石見大森・但馬生野などの主要な鉱山も支配下において、天正大判などの貨幣を鋳造した。
五奉行
しかし、秀吉の独裁色が強く、中央政府の組織の整備が十分行われなかった。腹心の家臣を五奉行(浅野長政・増田長盛・石田三成・前田玄以・長束正家)として政務を分掌させ、有力大名を五大老(徳川家康・前田利家・毛利輝元・小早川隆景(五大老と呼ばれた頃は死んでいる)・宇喜多秀家・上杉景勝)として重要政務を合議させる制度ができたのは、秀吉の晩年のことであった。
検地
豊臣政権は打ち出した中心政策は、検地と刀狩であった。秀吉は新しく獲得した領地を次々と検地を施行したが、これら一連の検地を太閤検地という。太閤検地は、土地の面積表示を新しい基準のもとに定めた町・段・畝・歩に統一するとともに、それまでまちまちであった枡の容量も京枡に統一(1石=10斗 1斗=10升 1升=10合)し、村ごとに田畑・屋敷地の面積・等級を調査して、石盛(段あたりの標準収穫高)・石高(石盛×面積 土地の生産力)を定めた。この結果として、全国の生産力が米の量で換算された石高制が確立した。また、太閤検地は、荘園制のもとで一つの土地に何人もの権利が重なりあっていた状態を整理し、検地帳には実際に耕作している農民の田畑と屋敷地を登録した(一地一作人の原則)。この結果、農民は自分の田畑の所有権を法的に認められることになったが、それと同時に、自分の持ち分の石高に応じた年貢などの負担を義務づけられることにもなった(二公一民 石高の3分の2を納入する)。中間搾取(作合)が否定され、石高制が成立した結果、大名は石高に応じた軍役が課せられた(大名知行制の基盤確立)
刀狩
刀狩は、農民から武器を没収して農民の身分を明確にする目的でおこなわれた。荘園制下の農民は刀などの武器を持つ者が多く、土一揆や一向一揆などでは、これらの武器が威力を発揮した。そこで秀吉は一揆を防止し、農民を農業に専念させるため、1588年刀狩令を出し、農民の武器を没収した(口実は方広寺の大仏造立建立のため)。ついで1591年、秀吉は人掃令(身分統制令)を出し、武家奉公人の百姓・町人化、百姓の町人化禁止、武士が無断で主を変更禁止を行った。身分別に家数・人数を調査し、朝鮮出兵の準備をした。
ある歴史学者が刀は「武家しか指せない」と言ってますが誤りです。
七十一番職人歌合では、弓作(16番)や傘張(22番)が腰刀を帯びています。また、ルイス・フロイスの「日本史」においても農民が帯刀していたと書かれています。
帯刀が制限されるのは秀吉の刀狩令よりも後、江戸時代17世紀末の話です。 pic.twitter.com/shjCBuWGj1— tngcn👺 (@tenguchan) July 22, 2024
キリスト教対策
こうして、検地・刀狩・人掃令などの政策によって、兵・町人・百姓の職業にもとづく身分が定められ、いわゆる兵農分離が完成した。 対外政策としては、キリスト教対策を行った。キリシタン大名の大村純忠が長崎をイエズス会の教会に寄付している事実を認識し、まず大名らのキリスト教入信を許可制にし、バテレン(宣教師)追放令を九州平定の帰途中の博多で発令した。一方で、1588年海賊取締令を出して、倭寇などの海賊行為を禁止し、海上支配を強化するとともに南蛮貿易を奨励したため、キリスト教対策は不徹底に終わった。 全国を統一した秀吉は、日本を東アジアの中心とする新しい国際秩序をつくることを志し、ゴアのポルトガル政庁、マニラのスペイン政庁、高山国(台湾)などに服属と入貢を求めた。
朝鮮侵略
1587年、秀吉は対馬の宋氏を通して、朝鮮に対し明への先導を求めるも拒否されたため、肥前の名護屋に本陣を築き、1592年、15万余りの大軍(加藤清正・小西行長ら)を朝鮮に派兵した(文禄の役)。朝鮮水軍の李舜臣の奮戦、朝鮮義兵の抵抗、明の援軍などにより、戦況は不利になり、小西行長らによる和平工作により日本軍は撤退した。1597年、秀吉はふたたび朝鮮に14万余りの兵を送った(慶長の役)が、最初から苦戦を強いられ、翌年、秀吉が病死すると撤兵した。
西生浦倭城(そせんぽウェそん)
韓国で日本の築城跡見られるのをしってますか?
蔚山にある西生浦倭城は豊臣秀吉が命じた朝鮮出兵の際に加藤清正が築城した城跡です。天守閣などはありませんが400年以上経った今でも石組みなどが残っています。城からは蔚山の海が一望できます。 pic.twitter.com/o2WVXrCuRq— ジェリ汁💎💖⚜️ (@JeliJeliJeli3) February 11, 2024
豊臣政権の衰退
日本軍の朝鮮侵略は、朝鮮を戦火に巻き込み、多くの被害を与えた。また日本国内では、膨大な戦費と兵力を無駄に費やす結果となり、豊臣政権を衰退させる原因となった。