言語ゲーム
言語ゲームとは、ウィトゲンシュタインによって提唱された言語のありかたをあらわす概念であり、『論理哲学論考』においてみずから提唱した論理学を覆した。日常でなされる会話は、論理学が分析する言語のように明晰なものではなく、曖昧でさまざまな層をふくみ、状況や文脈によっておおきく異なる内容になっているということを示した。
言語ゲームの定義
言語ゲームとは、日常会話に使用されている言葉の分析であるが、その定義は非常に曖昧であり、曖昧性を示すためにもゲームという概念が使われた。ゲームであるかぎり、ルールがその前提にあるが、ゲームがいろいろな種類(トランプやビリヤード、野球)があるように、日常会話もまた、多くの種類をもっている。
第二節における語の使用(少ない語による命令のゲーム引用者)の全過程を、子供が自分の母語を学びとるゲームのひとつだ、と考えることもできるだろう。わたしは、こうしたゲームを「言語ゲーム」と呼び、ある原初的な言語を、ときに言語ゲームとして語ろうと思う。
わたしはまた、言語とそれが織りこまれた諸活動との総体をも言語ゲームと呼ぶ」(ウィトゲンシュタイン『哲学探究』七節)
生活形式
言語ゲームは、日常会話を分析するのだから、当然、生活形式に根ざしており、日常から離れたものではない。言葉を話すという行為は特別なものでなく、その他多くの行為と同様、自然史に属している。言語の独自の領域ではあるが、事実と接しており、万人の生の営みに浸透している。
ここで「言語ゲーム」ということばを使ったのは、言葉を話すということが、ひとつの活動や生活形式の一部であることを、はっきりさせるためなのだ」(『哲学探究』二十三節)
「命令し、問い、話し、喋ることは、歩いたり、食べたり、飲んだり、遊んだりすることと同じように、われわれの自然史に属している」(『哲学探究二十五節)
家族的類似性
言語ゲームがもつ特性を、家族になぞらえて「家族的類似性」と呼んだ。通常、生活で行われるゲーム、たとえばオセロやテニス、トランプ、野球はゲームの道具、人数、勝敗の有無、場所など、それぞれ多くの要素があるものの、一貫した共通の性質はなく、非常に幅広くゆるやかなくくりである。それぞれのゲームが、類似しあい、あるいは異なっているなかでゲームと名付けられている。われわれの日常の言語ゲゲームもまた同様のものである。ウィトゲンシュタインはこの言葉の広さを家族間が大まかに似ていることになぞらえ、相互の関係で緩やかにくくられた集合体のことを家族的類似と呼んだ。
プラトンの否定
言語ゲームにおいてプラトンが唱えたイデア論が否定される。絶対的で理想的な正義のイデアといったようなものはなく、あるのは正義と呼ばれる様々な事象だけであり、それらはすべてに共通する正義ではなく、我々は、様々な個々の事象を、家族的類似でなされている中で緩やかなくくりの中で正義と呼んでいる。