観勒(かんろく)|遣隋使とともに来日した百済の僧

観勒(かんろく)

観勒(かんろく)は602年、遣隋使とともに来日した百済の僧である。百済からの文化使節として来日したが、このころ計画されていた百済と日本との新羅挟撃において、日本の軍事援助に期待する百済の代償という意味をもっている。

目次

献上品

豊浦(とゆら)宮で、推古天皇聖徳太子、大臣の蘇我馬子以下、群臣に百済からの持参品を披露した。献上品は、600年につくられた隋の皇極暦、天文・地理・遁甲・方術関係の書籍で、その大部分は中国伝来のものである。観勒(かんろく)の懇切な説明に人々は聞き入り、とくに聖徳太子との間には、2、3の質疑応答がみられたと伝えられている。

僧正・僧都、法頭の制度

624年、僧尼の犯罪などを取り締まるための僧正・僧都、寺院の管理を行う法頭の制度が設けられ、僧正には百済の僧の観勒、僧都には鞍部徳積(くらつくりのとくしゃく)が起用された。
仏教の伝来から100年が経ち、寺院の増加とともに僧尼も数を増やした。おおよそ寺院46、僧816人、尼569人までになっていたと伝わっているが、その一方で、仏道に励む僧尼たちの犯罪が増えたことがその背景にある。そこで観勒はこれらの制度を献上した。

逸話

ある僧が祖父を斧で殴り殺すという事件がおこり、推古天皇は諸寺の悪僧たちを処罰しようとしたが、観勒は、仏教伝来後、まだ日が浅く僧尼たちが法をいまだわきまえていないことを説いた。そして悪逆の者以外は放免するよう願い出た。